スマートフォンのアプリをアップデートするのは当たり前になっても、我々は我々自身をアップデートしようとしているだろうか?
自分のバージョンが何年も変わっていないなんてことはないだろうか?
自分アップデートのための開発にお金も時間もかけなければ、やがて誰からも使われなくなってしまう。
そして、いつかは削除されてしまう運命に。
自分アップデートのために何をするのか?
次期iPhoneやiOSの開発責任者になったつもりでコンセプト設計から取り組みたい。
誰もが背中に負っているものがある。
それがどんなものなのか、どれほどの重さなのかは、周りからは見えない、わからない。
故に、想像力を働かせるしかないのだけれど、それが見えない、わからないだけについ気が緩む。
すると、いとも簡単に軽口を叩いてしまう。
本当は、その人は、巨石を負い、ありえないほどの力を振り絞って必死に前進しようとしているにもかかわらず。
誰かが背中に負っている荷物の重さを慮ることの意味、価値を思い出さなければならないと感じた。
それとは全く別の次元で、
突然の政局に日本全体が大混乱に陥っている。
自民党も民進党も希望の党も公明党も維新も社民も立憲民主党も共産党も散々だけれど、
当の本人たちの背負っているものの大きさを考えると、
それを真剣に考えれば考えるほど、
私たちの選択の重さを背中にずっしりと感じる。
彼らの口から吹き出るあまりにも軽い言葉とは裏腹に・・・
背中で語れる人間になりたい。
「ゆとり世代」「マニュアル世代」と揶揄されることも多い「最近の若者」だけれど、必ずしも巷に溢れる「使えない奴」ばかりでは決してない。
むしろ世界で活躍できる人材が雨後のタケノコのように育ってきている。
彼らは彼らの時代があり、見てきたものがあり、感じてきたことがある。
振り返りたいのは彼らのできること、できないことではなく、
自分の背中だ。
果たして自分は自分の背中で語れるほどの行動をしてきただろうか。
言葉で語らずともオーラで伝えられるほどの信念を持っているだろうか。
背中で語れるほどの実績を残してきただろうか。
他の誰かをとやかく言う閑があったら少しでも自分の足りなさを見直して戒めたい。
それを続けることでのみ背中で語れる人間になれる。
それが一番の指導法でもあることにようやく気づけた。
背中を押せる人間でありたい。
ふとそんなことを思った。
お金はないけれど、どうしても欲しいものがある人がいたら、なんとか工面して買うことを勧めてあげたい。
何かをやめようと思いつつなかなかやめられない人がいたらやめたらいいとハッキリ言ってあげたい。
新しい世界に踏み出そうかどうしようか悩んでいる人がいたら、失敗したっていい、飛び込んでみようと笑顔で送り出せたらいい。
何かを選ぶことはそれ以外の全てを捨てること。
人はそれを本能的に知ったいるからこそ、大きな決断であればあるほど、悩んでしまう。
しかし、心の中ではわかっている。
一歩前に出るべきだと。
その最期の一歩を踏み出すために、
愛情を持って、
背中を押してあげられる人間になりたい。
心はどこにあるのだろう。
感覚的には、胸(心臓)の辺り? それとも脳の中?
なんとなくの世界ではそれでいいし、誰かが正しい答えを持っているわけでもない。
先日のNHKの特集で最新の人体の神秘が扱われていて、その中でゲストで出ていた女優の石原さとみが言っていたことが印象に残っている。
「最近、友人と心がどこにあるかという話になって、友人たちは心臓や頭(脳)だと言っていたんですけど、私は『細胞』って答えたんですよね。自分でも何故だかよくわからないんですけど、細胞の一つひとつに心があると思ったんです」
「深い!」 と思った。
我々人間の一人ひとりに心が宿っているように、我々一人ひとりを作っている細胞一つひとつにも心が在るというのは斬新でありつつ非常に納得のいく、答えなのではないか、そんな風に感じた。
IPS細胞の山中教授がタモリと一緒に番組の司会をしていて、それを肯定するような発言を聞いて改めて合点がいった気がした。
次に何をすればいいのか。
自ずから答えが見えてきた気がした。