枯れた目をする

 

目力があるのは良いこと。

 

「目は口ほどに物を言う」というくらいで目はやる気や自信を表す心の窓。そこに力が宿っているのは喜ぶべきこと。

 

他方で、「口が立つ人」は、とかく疎まれたり、避けられたりもする。

 

目力がある人も時に同じ扱いを受けることがある。

 

それに対し「枯れた目」をしている人は誰からも警戒されることなく、すぅっと人の心の中に入っていける。

 

そういう人たちは本当は決して枯れた目をしているのではなく、目の光を抑える方法を知っているだけ。

 

枯れているように見えるだけであって、地面の下にはしっかりと根を張り、然るべきタイミングを見計らっては一気に新芽を伸ばし、あっという間に果実を実らす。

 

そんな域に達せられるようこれからも修行を積んでいきたい。

 

いやいや、そんな意気込みがあったらいけないんだった(笑)・・・

 

 

批判されてこそ

 

批判されていい気持ちになる人はいない。

 

ましてや喜ぶ人は誰もいない。

 

それでも批判を単純に批判するのではなく、敢えて肯定したいと思った。

 

というのも、ネット社会が進むにつれ、一億総評論家とも言っていいような状況が生まれているから。

 

あらゆる種類の情報が一瞬で世界中を駆け巡り、一部の情報を聞きかじることで何の気負いも責任も持たない人がいとも簡単に批評批判をするようになった。

 

批評批判を恐れてはならないと思うのは、批判されないのはある意味何もしていないから。

 

誰かが信念を持ってそれなりの時間とエネルギーをかけて行えば、異なる信念や価値観を持った人には受け入れられない作品ができるのは当たり前。

 

批判にめげない、批判に折れない、むしろ批判を力にする。

 

その心構えさえしっかりと持っていれば、怖いものはなくなる。

 

批判されてこそいい仕事をしていることになる。

 

 

最適化に向かう過程

 

いろんなことが起こる。起こり続けている。

 

イライラしたり、怒ったり、悔やんだり、悩んで解決するなら悩めばいい。

 

悩んで解決しないのならいっそ開き直って「最適化に向かう過程」だと思うのが得策だ。

 

ランニングをしている人が息が切れるのをおかしいと思ったり、イライラすることはない。

 

スイミングをしている人が息がしづらいと文句を言うことはない。

 

富士山を登ろうとしている人が道のりがしんどいことを理不尽に思うことはない。

 

自らそれを選んでいるからであり、その先にあるものを見据えているから。

 

仕事も人生も同じだ。

 

自ら選んだ「最適化に向かう過程」だと思えばいい。

 

思い出よ 永遠に

 

小学5年生の娘が先月自然学校に行ってきた。

 

その作文を聞いて我が娘ながら感心した。

 

「5日という短い期間のなかで」

 

自然学校は、まさに夢の中の世界のようだった。今、思うとものすごくあっという間な気がする。とても不安でやりたくなかった2つの思い出がどんな行事よりも最高な思い出になっている。

 

オリエンテーリングのことだ。(まずこれは何なのか。何をする行事なのか)とずっと思っていたくらい何も知らなかった。でもみんなとカエルの歌をうたったり、クイズを解いたりすることが最高に幸せだった。笑いが体をこえて外まであふれ出したようだった。リーダーからの挑戦状もとってもおもしろくて、思いっきり楽しむことができた。おくれているひとがいたらはぐれないように声かけもできた。その経験でわたしはグンッと成長することができた。

 

キャンプファイヤー、最初は出し物がぜんぜん決まらなかった。わたしのグループはあのグループが一番良い出し物になりそうにないと言われてたらしい。でもその言葉をはね返すような良い出し物がみんなの案でできた。「4年生の運動会のときにおどったダンスの音楽をかけてみんなでおどりながら一人ひとりが自然学校の思い出を言う」ということだ。

 

おどっていると、自分からほほを上げるのではなく、自然にほほが上がっていて心の底から楽しいと思えた。「スタンツ練習、大変だった。」という言葉の私の声は火が消えるくらい大きな声だったと思う。上野ん、井原さん、大久保さん、堀さん、生野さん、山本さん、仁木さん、門川さん、早水さん、砂川さん、永井さん全員で楽しんだ。

 

生まれて初めてすることから、成長につながるんだなと初めて思った。この経験でふつうの学校では出さない良い自分を大きく解放させれたことが自然学校で一番良かったことだ。

 

 決まった字数制限の中で下記をやむなく省いたことも話してくれた。

 

「自分たちのスタンツが終わったときは頭の中、体の中の不安が全てなくなった気がしたこと、今まで感じたことのない達成感を感じたこと、しっかり頭の中に残っている」

 

彼女の中に残っている思い出よ 永遠に。

 

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林檎の季節X

 

 ついに来た!

 

iPhone発売以来10年を記念するモデル、話題のスマホに興味の触手を刺激されつつも機能面や価格に懐疑的な意見もある中、待ち続けていた。

 

これまで3年使っていたiPhone 6が最近反応スピードも電池寿命も疲れ始めていただけに新しい8にするのか、8プラスにするのか、はたまたXにするのか、この2、3ヶ月ずっと考え続けてきた。

 

改良点や新しい機能、他者によるレビューは参考にはなっても実際に自分の手で実機を触ってみないとGOサインは出せない。何より触った感じや操作感に新鮮味がないと納得感は得られないし、正直なところ値段を考えると発注する勇気がなかなか持てなかった。

 

発売日の11月3日の朝、ソフトバンクに行ってでデモ機を触ってみた。するとこれがなんともいい感じ!

 

画面の大きさに憧れて8プラスにすることも考えたけれど、キーボードの左寄せができるとしてもやはり入力のし辛さが気になっていた。それが全く気にならない。本体サイズはiPhone6,7,8とほとんど変わらないにもかかわらず画面は8プラスよりも大きいのだとか。

 

個人的にはベゼル部分が思ったほど小さくなく全面画面という印象はあまり受けなかったし、ステンレスは高級感よりもむしろ重さが強調されるような気がして好みとは言い難い。

 

それでもガラスコーティングの裏面は確かに美しいし、手に持った感と片手での入力のし易さ、画面の大きさ、そして有機ELの画面の美しさに心を奪われた。

 

気がつくと店員さんの説明も途中に発注することを決めていた。

 

その時は入荷にはしばらく時間がかかること、年明けになるだろうし、1月中も疑わしいかも・・・という店員さんの意見に品薄の噂は本当なのだと感心しつつも入荷の日が待ち遠しかった。

 

それが何と1週間も経たずに入荷されたとの連絡が入り、今日手続きを済ませてきた。(他のプランやサービスを極力削減して、実際の支払いは思っていたほど上がらず一安心)

 

 家に戻っていろいろと試してみる。

 

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早速買ったばかりの保護用ガラスを貼り付け、カバーを取り付ける。

  

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よし! いい感じだ!

 

顔認証システムも驚くほどスムーズに反応する。

 

操作感も多少の慣れは必要だけれど難しさや非効率感は全く感じさせずむしろ新しさにちょっとした興奮さえ覚えるほど。

 

次世代iPhoneの機能の一つ、無線充電も驚くほど簡単だ。

 

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線を繋いだり外したりと言っても1日に何度もするものではなかっただけに気にはならなかったけれど、実際に 置くだけを体験するとこれまたストレスフリー!

 

カメラも絵文字も新しいアプリもこれから少しずつ開拓していきたい。

 

久々の新しいiPhoneにワクワクする!

 

林檎の季節を謳歌している。

 

リセットする

 

全てが始まった時にいた人たちと再会した。

 

驚くほど何も変わらないと同時に、その時間分進化し、今いる場所から未来を予感する視点も共有することができた。

 

自民党支持を散々非難はされたけれど、政権運営する責任の重さと代替案の軽さを比較しながら現実の重さと理想の軽さと美しさを再確認できた。そんな気がする。

 

いろんなことが起こっている。

 

本質は何なのか。

 

うわべだけではなく、本当にしたいことは何なのか。

 

自分しかできないことは何なのか。

 

その視点を忘れずに、

 

自分の中にあるものをひたすら信じて、

 

全てをリセットする。 

 

未来を信じて、

 

 

 

ネットとリアルの境界線

 

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近くのマンションに次々と宅配ボックスが取り付けられるようになった。

 

ネットショッピングが日常生活になくてはならないものになるにつれ、宅配業者の負担が増え、個別の企業努力ではどうしようもないところまできている。

 

政府が問題視し、議会にまで問題が持ち込まれるほどに。

 

正直なところ最初は企業の問題であり、業界の課題を国が扱うことに大いなる違和感を感じたし、国民の血税が何らかの形で使われることに大反対ではあったけれど、現状を聞けば聞くほど急激に進むネット社会とリアルの社会の軋轢の犠牲になっていることを感じるようになっていた。

 

いつの間にか宅配ボックスはネットとリアルを結ぶインフラ整備の一環であるように思えるようになっていた。

 

そう。

 

宅配ボックスはネットとリアルの境界線を引く空間の一つと言えるのではないか、と。

 

社会インフラの整備の一環であれば、それなりに納得はいく。

 

それでも事実関係をはっきりさせるためにマンションのオーナーやディベロッパーが宅配ボックスを設置することで何らかの補助金が支払われているかどうかは確認した方がいい。

 

そう思った。