テレビのない生活

 

2月に引越しを終えてから昨日までテレビのない生活を送っていた。

 

昨日工事が終わりケーブルテレビが開通した。

 

正直な感想は・・・

 

少し残念

 

元々それほどテレビは見ない方だけれど、それでもニュースや経済番組、NHK特集が積み重なるとそれなりの時間テレビ視聴に費やしていた。

 

東京の住まいはテレビはケーブルなしでは映らず、忙しさと手続きの煩雑さを理由に2ヶ月半テレビを見ない生活でそれでも不便は一切感じず、むしろ心地良かった。

 

その理由を探ってみる・・・

 

朝起きてつけるテレビ、夜帰ってきたからつけるテレビ、一旦動く画面を見てしまうと内容の良し悪しに拘らず見入ってしまうもの。

 

テレビをつけたらその瞬間意識を持っていかれてしまう。

 

魂を奪われてしまう。

 

奪われた魂をせっかく取り戻したのにまた持っていかれてしまう。

 

その感覚が「残念」の正体だという気がした。

 

ならば、

 

ケーブルテレビでどうテレビのメリットを享受し、かつ自分の魂を留め続けるか、それを考えればいい。

 

問題はテレビではなく、自分の問題。

 

テレビのある生活が問題なのではなく、自制のない生活が問題なのだ。

 

 

 

わかりやすさ

 

最近「わかりやすさ」についてずっと考えている。

 

何かが「わかる」というのは当たり前に思える一方で、複数の人がいると十人十色の受け取り方、わかり方、わからなさがあるとも感じられる。そんな機会が増えている。

 

何かをわかりやすく伝えようとしても文化の違い、価値観の違い、理解力の違いが壁になってそう簡単に伝わらない。

 

いや、異なる形で伝わってしまう。

 

それを避けるためにも物事の本質や自分自身の価値観を考えることの大切さを一昨日、昨日と書いてきた。

 

「わかりやすさ」はそのための基本であり、「誰もが知っている言葉や表現」「シンプルさ」や「論理」はその構成物。

 

そして、「わかりやすさ」は「親近感」や「信頼度」の構成物である。

 

「わかりやすさ」をこれからも追求したい。

 

 

自分がどうしたいか?

 

昨日のブログで「本質は何か?」を自問自答することを書いた。

 

身の回りで起こる事象は様々な様相を呈している。見方、切口、立場によって全く異なるために理解や議論を合わせるには本質を捉えることが一番の近道。

 

対象物の本質を見極めることで(たとえ仮説としての設定であっても)議論やゴールに向かう道のりのぶれ幅が小さくなる。

 

それはゴールが何かを設定することと似ていて、そう考えるならば、出発点も同じように決めることが大事と言える。

 

それが「自分がどうしたいか?」だ。

 

自分という人間が何を目指して、どんな価値観を持って生きているのか。

 

その本質が決まっていなければそれもまた「ぶれ」の要因となってしまう。

 

自分のいる場所から対象物の本質までの最短距離を見つけるためにも

 

自分がどうしたいか?

 

それを絶えず自問自答し続けなければならない。

 

わくわくしてきた

 

 

本質は何か?

 

本質は何か? 本質は何か? 本質は何か?

 

少なくとも3回は自らに問うことを癖付けたい。

 

議論がぶれたり、思考の整理がつかないのはたいていの場合、的が絞れていないなら。

 

物事には様々な要素や側面があって、見る角度や見る時間、見る人によって見え方が全く異なる。

 

同じものについて話をしているのに話者間で全く別件かと思われることさえある。

 

それを避けるためにも物事の本質に近づきたい。

 

自らに問い続け、たとえ仮説であっても的を絞ることで枝葉に惑わされず真っ直ぐにゴールに向かうことができる。

 

本質は何か?

 

自らにそう尋ね続けて、真実に一歩ずつ近づいていく。

 

 

地下鉄にて

 

東京メトロ丸ノ内線の電車の中で立っていると様々な広告が目に飛び込んでくる。

 

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鉄分入りだと美味しくなくなるのが普通なのか・・・

 

もし自分が研究者ならどんな工夫をするだろう?

 

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子どもが小さかったら行ってただろうなぁ。

 

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女の子が1年長く初等教育を受けると、

その子が将来ある収入が

11%増加する。

さて、貧困を止める近道は?

 

すべての女性が中等教育を修了すれば、

5歳未満の死亡率は49%減り、

1年で300万人の命が救える。

さて、子どもたちを救う近道は?

 

公益財団法人が出している公共性の高い広告を読んでハッとする。

 

こんなのもある。

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驚いたのはこれ。

 

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東京の地下鉄で大阪の「おけいはん」の広告は無駄なのではないか。

 

そう思うのは筆者だけで想像を超える効果があるのかも・・・

 

スマホを見るのもいいけど、昔ながらの電車内広告も意外と面白い。

 

配られたカードで

 

配られたカードで勝負するっきゃないのさ

 

は、スヌーピーのセリフ。

 

あれがない、これがない、もっとあれがあれば、これがあれば・・・

 

ついついそう感じたり、言ったりするけれど、結局のところ我々は配られたカードで勝負するしかない。

 

自分事も学校も勤務先も、

 

国家も。

 

トランプであれ、安倍であれ、

 

配られたカードで最善を尽くすだけ。

 

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遊び心

 

「遊び心」を意識したのは大人になってからだろうか。

 

子どもにとって遊びは普通で敢えて「遊び心」を意識する必要はない。

 

受け身でいると、しなけれはならないことをするだけの人生になってしまいがちだけれど、仕事や普段の生活の中に「遊び心」を散りばめられると人生は楽しくなるし、豊かになる。

 

自分のカラーや工夫を加えることで少しずつ自分らしさが出せるし、「自分の物語」の雰囲気やテーマもそれらしくなっていく。

 

そこにユーモアや「遊び心」があれば、尚楽しい。

 

最近聞いた中で一番の「遊び心」はこれ。

 

中三になった息子の友人が3年4組、出席番号6番になったという。

 

???

 

友人の名は三四郎

 

子どもたちは奇跡だと大いに騒いでいたみたいだけど、中学校の先生たちの「遊び心」に違いない。

 

三四郎君が入学した時から計画されていたはず・・・

 

さあ、我々はどんな「遊び心」を発揮しよう?