人として

 

結局戻ってくるところは「人として」だ。

 

いくら仕事ができても結果を出していようとも「人として」に疑問符がつくようであれば長続きはしない。

 

男であるからとか女であるからとか、若いからとか経験があるからとか、日本人だからとか外国人だからとか、業界の習わしだとか、関係ない。

 

一切ない。

 

人として正しいことをする。

 

人としてあるべき姿を貫く。

 

そして、

 

人として魅力的になる。

 

頭がちぎれるくらい

 

頭がちぎれるくらい考えなければならない。

 

ある人がそう言った。

 

それが命令でも忠告でもなくスーッと入ってきたのはその必要性を自ら感じて準備をしていたから。

 

頭の中で一所懸命考えるのは一つの方法。

 

寝ても覚めても一つのことを考え続けるうちに夢に出るようになり、潜在意識に刷り込まれ、然るべきタイミングで天から答えが降りてくる。(と信じたい)

 

もう一つは、顕在意識を総動員する方法。ノートを一冊用意して、濃い目の鉛筆を手に持って(口にくわえて?)思い浮かべることを片っ端から書き並べていく。

 

言葉と言葉を繋ぎ、新たな言葉を引っ張り出しては、見えない何かを形にしていく。

 

新しい観念を創り上げる。

 

理想と現実と優先順位の狭間で矛盾と締切と戦い、考え続ける。

 

脳がオーバーヒートし、

 

頭がちぎれると感じるほど。

 

その先にある世界を信じて。

 

 

凡事徹底

 

今日は娘の中学校の入学式。

 

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校長先生から式辞で「凡事徹底」という言葉が贈られた。

 

日米野球で活躍し、先日引退したイチロー選手の名言の一つが紹介された。

 

イチロー選手は高校時代、寝る前に10分の素振りをしていました。1日たったの10分ではありましたが、365日、それを3年間続けたそうです。」

 

「それが彼の凡事ではありましたが、徹底したことで彼をどのような人物になったかはご存知の通りです。さて、皆さんにとっての凡事は何でしょう?」

 

自分にとっての凡事は何だろう?

 

果たして自分はそれを徹底できているだろうか?

 

凡事徹底

 

心に刻んで、徹底したい。

 

 

二種類の優しさ

 

日本の昔話の代表的な一つと言っていい「鶴の恩返し」に続きがあるという話を聞いた。

 

真偽のほどは知らないがこんな話。

 

機織りの最中には見てはいけないと言われていたお爺さんが好奇心に負けて覗いてしまう。

 

それを知った鶴は正体を知られたからには去らねばならなくなり、おじいさんとおばあさんの元から飛び去ってしまう。

 

その姿を見送りながらおばあさんが言う。

 

「おじいさんは、いつからあの娘が鶴だと知っていたの?」

 

「・・・」

 

「日に日に痩せ細っていく姿に耐え切れなくて、鶴を返してあげるためにわざと覗いたってどうして言わなかったの?」

 

「おばあさんがわかってくれたらそれでいいんじゃよ」

 

長渕剛の歌の中にこんな歌詞があったのを思い出した。

 

「優しさヅラした優しさは全く意味がねえ」

 

我々の社会は、その二種類の優しさで成り立っている。

 

変換力を高める

 

一昨日、昨日のブログで「しなければならない症候群」について考えた。

 

その最後に「変換力を高めたい」と締め括った。

 

変換力とは文字通り変換する力。

 

ありのままを受け入れ、それを消化する力を高めることで進化するも真。

 

されど、時にありのままをそのまま受け入れられない時がある。

 

人によって、価値観の違いによって、経験値の多寡によって、飲み込み、消化できるモノとそうでないモノがあるのも事実。

 

そういう時は、言葉を変え、言い方を変え、伝える量を変え、相手がわかるように、消化できるように、動きたくなるように変換すればいい。

 

した方がいい。

 

その変換力の高さが人を動かす力になる。

 

参考)

もう一つの変換力について

変換力を鍛える

http://norio373.hatenablog.com/entry/2018/06/13/193608

感嘆の声も噂話も誹謗中傷も全て自らの力に換える。

 

耳に入ってくるいかなる声も目に飛び込んでくるどんな光景もそれ自体には何の意味もない。

 

単なる記号に過ぎない。

 

意味づけをするのはあくまで自分だ。

 

頭の中には自らプログラムし、繰り返し刷り込んで強化した変換システムがある。

 

そのシステムをポジティブに作動させるのも自分、反対に動かすのも自分。

 

周りから聞こえてくる賞賛も罵声も羨む声も憐れみも不用意な発言も所詮は外部入力に過ぎない。

 

その情報をどう翻訳するのか、変換するのかは自分次第なのだ。

 

頭の中で、

 

心の中で、

 

自由自在に変換すればいい。

 

その変換力を鍛える。

 

なければならない症候群の処方箋

 

なければならない症候群が発症すると、真面目であればあるほど、

 

必要に駆られて、

 

あるべき形に入ろうとして、

 

押し込もうとして、

 

自分にも周りの人たちにも厳しい、しんどい思いを強いてしまいがち。

 

それが力になるのも事実だろうけれど、理由なき依頼や強制が長続きすることはない。

 

なければならない形の必要性を説くのが一つ。

 

みんなにお願いして協力を仰ぐのも一つ。

 

「しなければならない」を「したい」「なりたい」に変換するのも一つ。

 

どれがいいかは明白だ。

 

変換力を高めたい。

 

 

なければならない症候群

 

結果を出さなければならない。

 

ゴールに辿り着かなければならない。

 

高い山に登らなければならない。

 

変わらなければならない。

 

「なければならない」に囲まれて息が詰まりそうになる。

 

窒息しそうになる。

 

まるで東京のラッシュアワーの電車のよう。

 

そんな時にはその場から逃げ出したくなるけれど、そこが踏ん張りどころ。

 

いっそ開き直って人としてあるべき姿を見つめ、行くべき道を行けばいい。

 

自分を信じて。

 

これまで歩んできた道に誇りを持って。