裸火


現代社会においては裸火を目にすることがめっきり少なくなった。



改めてそう感じた理由はこれ。







キャンプ場のかまどに蒔きをくべ、火を起こした。火が消えないように慎重に気を配りながら火力を上げていく。



かまどの中で揺らめいている裸火を見ていると少しずつ視線が固定され、いつの間にか思考が開放されていた。



遥か昔のアフリカ。人類史に残る初めて火を起こすシーンが頭の中に浮かんだ。次の舞台はベトナム戦争。火炎放射器が田畑や森林を焼き尽くす情景が脳裏に映る。そして、先だっての我が国日本。人間がコントロールできると過信した原子力に想いが及ぶ。



原子力発電では裸火を扱うことはない。しかし、人類が人類たり得たきっかけが火を扱うこと、コントロールすることであるならば、火という最初のエネルギーの進化形とも言える原子力発電を文明や科学技術の象徴と捉えることもできるはず。



しかし、我々は自らの文明や科学技術を過信した結果、今回の悲惨な状況をもたらした。



あまりにも美し過ぎる裸火に見惚れながら思考の旅が「フクシマ」で停まった。