走るという哲学


昨日の「歩くという哲学」に引き続き今日は「走るという哲学」について考えてみる。



「歩くという哲学」を書きながらあるエピソードを思い出した。



それは村上春樹さんの作品にある一節と自己体験だ。



「マラソンを走ったことのある人生とそうでない人生は全く違うもの」



その言葉が喉に刺さった魚の骨のように私の心に突き刺さっていた。



いつかはフルマラソンを走ってみようと思っていたが、その「いつか」はそう遠くない時点で訪れた。



その体験を経て心に突き刺さった言葉は取り除かれた。



自分なりの解釈ではあるものの答えはこうだ。



42.195kmという距離を走ることが人生を異なるものにするという意味ではなく、フルマラソンを走るためにはトレーニングが絶対に必要不可欠。その自己鍛練中に自分や自分の人生について、否、この世に存在する、しないあらゆることについて、思考を巡らし、積み重ね、壊し、積み上げ、また壊すことを繰り返すことによって、つまり「哲学をする」ことによって、結局は人生の深さが全く異なってくるのではないかという理解。



何事にもスピードが問われる現代社会においては深く重い思考がしにくい面がある。



だからこそ「哲学」が必要で、歩きながらでも走りながらでも一人で熟考することが大切なのだ。



そして、それをより多くの人と行える機会が求められている。



この場所がそんなサロンになる日を願って。