科学が背負う期待と責任

先日の日経新聞の社会面でこんな記事を発見し、驚いた。



地震予知失敗で禁錮6年 伊の学者ら7人実刑判決 (2012/10/23 0:50)


 【ラクイラ=共同】多数の犠牲者が出た2009年のイタリア中部地震で、大地震の兆候がないと判断し被害拡大につながったとして、過失致死傷罪に問われた同国防災庁付属委員会メンバーの学者ら7人の判決公判が22日、最大被災地ラクイラの地裁で開かれ、同地裁は全員に求刑の禁錮4年を上回る禁錮6年の実刑判決を言い渡した。
 地震予知の失敗で刑事責任が争われる世界的にも異例の事件。同地震では309人が死亡、6万人以上が被災した。
 イタリアの刑事裁判では判決理由は後日開示されるため、裁判所の判断の詳細は不明。被告側は控訴する方針を明らかにした。
 防災庁幹部だったベルナルド・デベルナルディニス被告(64)は閉廷後、記者団に「私は自分の務めを果たしただけで間違いは犯していない」とあらためて無実を主張した。
 大学教授や地震学の専門家らで構成される同委員会は、数カ月にわたり群発地震が続いていた中部の状況について、09年3月31日にラクイラで開いた会議で大地震に結び付く可能性は低いと報告。これが報道され、安心して避難しなかった多くの住民が6日後の4月6日に起きた中部地震で死傷したとして、7人が11年5月に起訴された。
 公判で、検察側は「委員会の報告がなければ犠牲者は用心深く行動したはずだ」と主張。弁護側は「地震被害は誰の責任でもない。まるで中世の裁判のようだ」と争っていた。
 遺族会のビットリーニ会長は「ラクイラでは大きな過ちが犯された。これからは各自が自分の行動に責任を負うことを学ばなければならない」と、学者らを批判した。以上



その3日後にはこんな記事も。



イタリアの地震予知実刑に抗議 米英の学術団体 (2012/10/26 11:11)


 【サンフランシスコ=共同】2009年のイタリア中部地震に先だって「安全宣言」を出したとして学者らが実刑判決を受けた問題で、米科学アカデミーと英王立協会は25日、「これが前例になると、科学者が訴追や処罰を恐れて専門的な見解を示すのを避けるようになる」として判決に抗議する共同声明を出した。

 声明は「私たちは天気予報や交通事故、地震や火山噴火、洪水など、日常的にリスクと不確実性の中で生きている」と指摘。「社会や政府は科学に対して明快で単純な答えを求めがちだが、科学者ができるのは可能な限りの証拠を集めた分析結果を助言することだ」と強調した。

 その上で「科学者が間違っていることもあるが、完璧さを求めすぎてはいけない。確信を持って予測できない場合でも、合理的だと思う意見を科学者が表明できる環境をつくる必要がある」と訴えた。以上



イタリアの件は少し行き過ぎかなという気がしただけに反論が提出されたのも当然と思ったものの科学が負っている責任の重さとその裏返しである期待の大きさにある種の羨ましさを感じた。



地震大国である我らが日本の地震学は予知も含めて世界の最先端を走っているはず。東日本大震災の予知は困難であったとしても同じ「科学」の申し子である「原子力発電」の震災対策があまりにもお粗末で、事故発生後の科学的対応のまずさまでが世界に露呈したにもかかわらず、科学者、東電の関係者の誰一人として刑事告訴されないという事実に疑問を感じずにはおれない。



科学が背負う期待と責任に関して我々日本人はあまりにも無頓着なのではないだろうか。



猛スピードで進化し、競争が激化している世界の中で、我々日本人がどうやって生きていくのか、日本国をどのように運営していくのか、にしても全く同じ。



生きていくために欠かせない重要問題を考えなければならないのは政治家だけでも高級官僚だけでもなく、



我々一般人でなければならない。



そう感じ始めているのは、人たちが声を上げ、立ち上がる日はそう遠くはないと信じたい。