問うというスタート地点

 

そこそこ=普通

 

そこから脱却したい、脱却することで自分の理想とする自分に近づけ、本来したいと思っていることができるようになる・・・そんなブログを昨日書いた。(そこそこからの脱出

 

日々の暮らしも楽ではない。

 

むしろ厄介なことばかり起こり続けている。

 

問題の芽を摘み、流れ来る流木をいなし、火の粉を払う・・・

 

現状を維持するだけでたいへんなのが現実で、ダントツ、突き抜ける、圧倒的・・・なんて夢のまた夢・・・

 

なんて感じてしまうのが普通・・・

 

と言ってしまうところが「そこそこ=普通」に中毒になっている証拠。

 

心が侵食され、腐敗が始まっているために何の疑問も迷いも感じなくなってしまっている。

 

 

何とかしようと思って答えを探し始める。

 

すぐに答えは見つからず悶々としてしまう。

 

しかし、

 

答えがなかなか見つからないのは、

 

実は、

 

問いがないから。

 

或いは、問いが明確ではないから。

 

問いのないところに答えはない。

 

答えを求めるのならば、

 

自ら問いを投げかけることがスタート地点となる。

 

具体的で明確な問いであればあるほど、答えも具体的で明確になる。

 

何を求めているのか、どうなりたいのか、

 

自らに「問うというスタート地点」に立とうではないか。