我慢の先にあるもの


我慢する


日本人の特性、特長だったのは過去のことかもしれない。


いつの頃からか我慢を美徳に思えなくなっていた。


それは個人的な感覚だけでなく、社会全体にも言える変化と言っていい。


貧しい時代から豊かさが当たり前となり、飽食の時代に入ってからは、


しなければならないからする、堪えなければならないから堪える、諦めなければならないから諦める、


自己を抑えつけること、自分を否定すること、己を無視すること、


つまり、我慢すること


は不要になり、いつの間にか悪にまで見なされるようになった。


もちろんそれは世界で同時に起こっている現象ではなく、まだほんの一部の恵まれた環境に身を置いている人の話ではある。


それでも科学技術の進歩とグローバル化の進展に伴って人類史上最も多くの人が我慢から解放され始めていることも事実。


最近思うのは、その我慢にも意味があるのではないかということ。


飢餓や病気や貧困という人類が戦い続けてきた苦労と結びつきやすいだけに否定的に捉われることの多い「我慢」にも別の側面があるのではないか。


したいこと、言いたいことを我慢するのは辛いけれど、我慢することでその想いは消費されず貯えられ、浄化され、純度を増す。また、その想いを持ち続けることで願望は増大し続けていく。


やがて欲望は強力な志に成長する。


全ては経験であり、


自分の中に力を蓄えるプロセス。


それがあったからこそ今があると感じられる時が来る。


我慢という蓄電の時があったからこそ強力な力を発揮できるということが。


今、もし何かに我慢しているのなら誇りを持って、自信を持って、辛抱し続ければいい。


我慢すればするほど力は大きくなり、


何か大きなことを成すための力になるのだから。