「諦める」の語源は「明らむ」「明らかにする」。
そんな話を何処かで聞いた。
改めて調べてみるとこの説明が一番わかりやすい。
今、日本語で「諦める」といえば、自分の願いごとが叶わずそれへの思いを断ちきる、という意味で使われるのが一般だ。しかし、「諦観(たい(てい)かん)」、「諦聴(たい(てい)ちょう)」といった熟語の「つまびらかにみる、聞く」にみられるように、「つまびらかにする」「明らかにする」が、本来の意味である。そして、漢語の「諦」は、梵語のsatya(サトヤ)への訳語であって、真理、道理を意味する。
そうであれば、ものごとの道理をわきまえることによって、自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念する、という思考のプロセスをそこに見出せる。単に「あきらめる」だけであれば、悔い、怨み、愚痴が残る。ものごとの道理が明らかになった上でのことならば、納得しての「諦らめ」となる。結婚というご縁にあずかった。諸般の事情を考慮してこのへんで「あきらめて」結婚に踏み切るか、わが身をしっかりみつめ、賜わったご縁を「諦めて」結婚するか、そこには大きな差がある。後者であれば、後で、こんなはずではなかった、と愚痴ることも少なかろう。
諦める | 生活の中の仏教用語 | 読むページ | 大谷大学
全てがつまびらかにされ、明らかになった上で納得して「諦める」のならいい。
ある意味、達観とも言えるから。
何も明らかになっていないのに「諦める」のはナンセンスだ。
努力不足を責められても文句は言えない。
自分を含めた人間の可能性は無限。
諦めた瞬間その可能性が有限になる。
目の前で潰える。
やっぱりどんなことがあっても諦めることだけはしたくはない。
可能性を信じ続けたい。