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想いの強さ

 

想いの強さが全てを突き抜ける


そんなことを思う機会が最近よくある。(昨日のブログ「エレベータートーク」でもそんなことを書いた)


迷いも恥ずかしさも自信のなさも超えていく。


何かをしたい、何かをする、そんな想いが強ければ強いほどエネルギーが高まり、普段感じる不安感やネガティブな想いを遥かに超えていく。さらに熱気を帯びると周りの人や物事も幸運も引きつけるようになる。

 
去年神っていた広島東洋カープが今年も抜群の強さを発揮している。(この3試合は小休止かな)
 
その広島カープの本格右腕大瀬良投手のドラフト時のエピソードが頭にこびりついている。
 
数年前のドラフト会議でのこと。大瀬良投手を無名の頃から追いかけていたスカウトがくじを引くことになった。普通は球団社長や監督がその役割を担うのに一スカウトが大役を得て、そして見事に交渉権を獲得したのはその想いの強さゆえ。
 
くじを引き当てた時の彼の喜びとその後染み出た感動と責任感の重さ、そこから解放された喜び、安堵感のようなものがないまぜとなったようでまさに感無量といった表情を浮かべていたのが印象的だった。
  
そして、広島に交渉権が決まったことを知った瞬間の大瀬良投手の笑顔も忘れられないほどさわやかで温かいものだった。
 
スカウト、選手の想いの強さが引き寄せた執念と言える。
 

ドラフトの陰の主役 感動を呼んだ広島スカウトの半生とは

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「絶対に当たると信じて臨みました」

 2013年のドラフト会議は、何ともいえない清々しさを持って幕を閉じた。九州共立大の大瀬良大地投手(22)を引き当てた広島・田村恵(けい)スカウト(37)の力強い拳と震えた声が、ファンの感動を呼んだ。ネット上には「ありがとう、田村スカウト」「スカウトと選手の絆がいい」「感動した」「(田村スカウトが)感極まる姿を見て、もらい泣きしました」などの言葉が次々と書き込まれた。今年も数多くのルーキーたちが脚光を浴びたドラフト会議において、田村氏は陰の主役と言えるかもしれない。
 
 広島は指名で重複した場合、担当スカウトがクジを引くことを決めていた。1巡目指名の大瀬良がヤクルト、阪神と競合すると、広島は球団史上初めて、九州担当の田村スカウトが壇上に上がった。対するヤクルトは小川淳司監督(56)、阪神和田豊監督(51)が運命の瞬間に立ち会う。一人のスカウトが迫力のある両監督に挟まれる光景は異様だった。
 
 その中で見事、交渉権獲得の判が押された紙を引き当てたのが、37歳のスカウト。声が震えた。
 
「ありがとうございます。本当にうれしいです。やっぱり、自分が一番、見続けてきたので、絶対に当たると信じて、臨みました」
 
 インタビュアーから「どんな選手に育ってほしいか」と問われると、「えっ…、頭真っ白で、何も答えられません」と思考すらままならない様子。最後に「野村監督のもとで一生懸命がんばって素晴らしい投手になってくれると思います」と絞り出すのが精一杯だった。その目はかすかに潤んでいた。
 
 そこまで感情が高ぶるのも無理はない。田村スカウトと大瀬良はこの瞬間まで約5年もの間、お互いを意識してきたのだ。

大瀬良にも熱意は十分伝わっていた

 広島は2009年のドラフトで、田村スカウトがマークしていた長崎・清峰高校今村猛を1位で指名。その年の夏の長崎県大会の準々決勝で、その清峰を破り、甲子園に出場したのが大瀬良を擁する長崎日大高校だった。田村氏はこの頃から常に大瀬良を気にかけていた。
 
 その5年分の思いは本人にもしっかりと伝わっていた。大瀬良はドラフト前まで12球団OKの姿勢を打ち出し、意中の球団名を挙げることはしなかった。だが、行き先が決まった後で、実は広島を希望していたことを明かしている。
 
 プロ野球のスカウトの世界では、どれだけ強い思いを持って選手を獲りにいっても、本人に届かないケースが多い。それが大瀬良の場合は広島に気持ちが傾いていた。つまり、それだけ田村スカウトの熱意が並はずれていたということだ。ドラフトで田村氏が壇上に立った瞬間、大瀬良自身、「引き当ててくれるかもしれない」と感じていたという。
 
 大瀬良が投手だったからこそ、田村氏の思いもとりわけ強かったのだろう。現役時代は捕手。約20年前は甲子園を沸かせた選手の一人だった。ドラフトの壇上に立つ姿を見て、懐かしさを覚えたファンもいたかもしれない。
 
 当時、黒縁メガネの小柄な捕手だった田村と、かわいらしいルックスの投手・福岡真一郎の鹿児島商工バッテリー(3年生時は校名変更で、樟南高)はアイドル的な人気を博した。2、3年の春夏で計4度の甲子園に出場。田村は3年時に主将を務め、鹿児島県勢初の決勝進出も果たしている。
 
 後に語り継がれるほどの存在となったのは、彼らの不運な散り際も一つの要因だった。1993年、田村が2年生の夏の3回戦。優勝候補と言われた茨城代表・常総学院を相手に序盤から4点をリード。福岡と田村のバッテリーは金子誠日本ハム)らを擁する強力打線を0点に封じ込めていた。だが、結果は降雨ノーゲーム。翌日に行われた再試合では、投手戦の末、0対1で敗れてしまった。
 

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次は我々の番だ。