くさの精霊が現れた!
うちのアーティスト作
くさの精霊が現れた!
うちのアーティスト作
昨日のブログでこんなことを書いた。
今までやってきたことややり方を変えるのはそう簡単ではなく、そのベースにあるモノの見方や考え方を変えなければならない。
どうせ変えるならば、いっそ考え方をパチンと切り替えてみるのがいい。それが一番効率的で楽なのだから。
https://norio373.hatenablog.com/entry/2022/06/23/224925
それは一つの方法であり、間違いなく最も効率的なやり方。
しかし、現実ではなかなか「パチンと切り替える」ことはできない。
ならば、あとはじわじわ変えていくしかない。
少しずつ、何度も何度も同じことを、新しい価値観を伝え続けて、一つひとつの好事例を拾い上げて、共有して、それをひたすら繰り返していく。
じわじわ変えていく。
そして、
ある日、すっかり変わったことに気づくことになる。
それでいい。
じわじわと変えていこう。
今までやってきたことややり方を変えるのは言うほど容易くはない。
従来のやり方にはそれなりの理由と実績と正当性があり、そのベースに付帯する考え方がある。
それらを引き摺っている限り変化はなかなか訪れないし、引き寄せられない。
やり方、動き方を変えるためにはベースにあるモノの見方や考え方を変えなければならない。
準備時間は掛かるかもしれないけれど、総体的にはその方が早いのだ。
考え方さえ切り替えられれば、後は行動をどう変えるか、新しい考え方と動き方をどうリンクさせるかだけが課題となる。
ならば、
いっそのこと考え方をパチンと切り替えてみるのがいいかもしれない。
それが一番効率的で楽かもしれないのだから。
今話題の「トップガン マーヴェリック」を観に行った。
トップガンマーヴェリック
上々の前評判を聞いていたけれど、想像の遥か上を飛び去って行った。
クールな音楽とスピード感溢れる映像と変わらないトム・クルーズのカッコ良さ。
前作へのオマージュが全編に溢れ、登場人物の存在感と一人ひとりの想い、そして36年という時の重さが作品に大作かつ名作の重厚さを与えていた。
その36年という時間は、映画だけでなく、自分の人生をフラッシュバックさせ、スクリーン越しに時間の重さを感じさせてくれた。
前作を見直すことで新作を十二分に楽しめたように自分の人生もまた振り返ることでここからの展開をもっと楽しめるかもしれない。
八五 銀座
風雲児 新宿
Homemade Ramen 麦苗 大森
三藤 緑ヶ丘
すず鬼 三鷹
中華そば 獅子亭 武蔵小金井
蝋燭屋 本店 銀座
SAL 三鷹
探訪を続ける中で自分の中の価値基準の物差しが出来始めている。
その精度を上げるのと同時に、
その物差し自体を作り替える一杯を探し続けている・・・
参考)
https://norio373.hatenablog.com/entry/2022/03/30/221920
https://norio373.hatenablog.com/entry/2021/12/21/220139 https://norio373.hatenablog.com/entry/2021/09/27/213358 https://norio373.hatenablog.com/entry/2021/06/15/222200 https://norio373.hatenablog.com/entry/2021/03/25/182525 https://norio373.hatenablog.com/entry/2020/12/19/210032 https://norio373.hatenablog.com/entry/2020/09/17/211836
常在戦場(じょうざいせんじょう)とは、いつでも戦場にいる心構えでことをなせという心得。
https://dime.jp/genre/1182138/
戦を最後の最後まで回避し、戊辰戦争の最中に独立を守り抜こうとした長岡藩に古くから伝わる言葉である。
司馬作品の中でも一二を争うほど好きな「峠」に出てくる印象的な言葉は、河井継之助の信念や生き方をそのまま表す。
実際の戦争は専守防衛以外は絶対に許されないけれど、日々の生活も気を緩めることなく生き残りを賭けてことにあたりたい。
常在戦場
心に刻もう。
説明しなければならない人には説明してもわからない
そんな内容のことが村上春樹の1Q84に書かれてあるのを読み直して以来頭から離れない。
「話せばわかる」
五・一五事件の犬養毅の台詞が空を切ったように青年将校との間には大きな溝があった。或いは、もとより言葉も価値観も異なる世界観自体が違っていた。
そんな異なる世界観を持っている人には言葉で説明しても真の意味での理解や意識の共有は極めて困難と言わざるを得ない。
まさに、説明しなければならないということは説明してもわからない、ということになる。
それでも説明することを諦めていいということにはならない。
世界の異なる人同士も時間と手間をかけ続ければいつかその時は来る、少なくとも来るかもしれない。
その可能性を信じて、説明を続け、相手の立場を理解しようとし、過去と現在の差が埋まらなくとも未来を共有できれば、いつかはその日が来る。
そう信じて、
説明の価値を信じて、
対話を続けたい。
続けてもらいたい。