先日来、学びについて考える機会が多い。
実体験に基づく学びが最も効果的かつ行動に繋がりやすいことに異論はないし、それこそが「人生の目的」であると言う人もいるほど。
されど、他者や歴史からも我々は学ぶことができるし、それが賢者と愚者を分けることになるという意見も十二分に納得がいく。
改めて我々が自らの実体験以外からどのように学べるのか、学ぶのかをしばし考えてみたい。
いろんなことが頭に浮かぶけれど、
要約すると、
「疑似体験」ができるかどうかにかかっている、
と言えるのではないか。
愛こそ全て、誠心誠意、艱難辛苦汝を玉にす・・・
こうした「結論」や「常識」は誰もがわかっている(つもり)だし、その認識は間違っていないのだろうけれど、行動にまで結びつくかどうかが問われることに異論はない。(知行合一)
自分が痛い目にあって学ぶことが一番だけれど、そうでないと学べないのかというとそれもまた正しくはない。
そのキーワードが「疑似体験」。
他人の経験をあたかも自分がしたかのように捉えられることで実体験をした時と似たような脳の動きになるから。
それを作るのが巧妙な「比喩」であり、秀逸な「物語」。
何故、比喩や物語が疑似体験を促すかというと、
実体験自体が何かの比喩であり、人生自体が一つの物語であるから。
本質的には、実体験も疑似体験もなんら変わりがない。
我々が現実と認識しているこの世界、この体験も誰が実際に現実に起こっていることであると証明できるのか。
我々自身の存在も本当に「在る」と断言できるのか。
我思うゆえに我あり
それを真実だとする証拠はどこにあるのか。
比喩と物語がいつの時代も人間を魅了するのは、
それ自体が我々の人生を表すからに他ならない。