アクティブラーニング


近年の大学は「教員が何を教えたか」ではなく、「学生が何をできるようになったのか」が問われるようになった。「学習者中心の教育」を基準にした大学教育の質保証で、その鍵を握るのがアクティブラーニング(能動的な学習)である。
アクティブラーニングとは、授業者が一方的に知識伝達をする講義スタイルではなく、課題研究やPBL(Project/Problem Based Learning)、ディスカッション、プレゼンテーションなど学生の能動的な学習を取り込んだ授業形態であり、知識の定着だけでなくスキル・態度などの汎用的技能の育成にも効果がある・・・



上記は日経新聞のコラム(2/21)からの抜粋だ。一昨日、昨日に引き続き、日経新聞のコラムを題材に書くことになる。 (新シリーズ誕生?)



勉強する、学ぶというのは本来能動的であるべきもの。それをわざわざ能動的な、という表現を使わなければならないこと自体が日本の教育の失敗を裏付けているのではないか。



厳密に言うと「勉強」と「学び」を一緒にするべきではない。勉強は勉めて強いると書く。能動的とはお世辞にも呼べない。学ぶは「まねる」が語源であり、少なくとも強いられるという語感はない。学習者からの視点であり、主体性を感じることもできる。"learning"という英語にも近いのではないか。



いずれにせよ、遅まきながら日本の教育にも「能動的な学習」という考えが導入され、学ぶことの面白さや楽しさ(それには苦しさや悩みも含まれる)にスポットライトが当たるというのは喜ばしいこと。昔の同僚が言ってたことを思い出した。



その同僚はアメリカ人で、小学校の校長先生をしているお父さんがいつも自分の生徒に話していたこと。



「皆さんが金(gold)の山にいるとしたらどうしますか? どれだけ多くの金(gold)を持ち帰っても自由です。好きなだけ持ち帰ってください、と言われたらどうしますか?」



「今、皆さんが通っている小学校も実は金(gold)の山なのです。知識や友情、様々な行事を通じて得られる経験はこれからの皆さんの人生にとってまさに金(gold)のようなもの。好きなだけ自分のものにしていいのです。それは与えられるものではなく、自分で持ち帰るものなのです。できるだけ多くの金(gold)を持ち帰ってください。」



このことはアメリカの小学校だけに止まらない。世界中のあらゆる学校、会社、どんな場所にも当てはまること。それがどんな場所であれ、自分の心がけ一つで今いる場所が金(gold)の山になる。



「アクティブラーニング」は人類がついに手に入れた「錬金術」なのかもしれない。