損得勘定と栄光への旅との関係


損得勘定は誰でもする。



厳密に言うと「誰でも」ではないかもしれないけれど、多くの人間が物事の判断基準に使っているというのが現実ではないか。



物事を損得で判断するということは「自分」が中心であるということ。自分にとって「利がある」(得をする)のか、「利がない」(或いは損をする)のかというのは人間社会にとっては切っても切れないほどの判断基準ではないだろうか。身も蓋もない言い方をすればそれが「人間らしさ」であり、「本性」と言ってもいいくらい。



だからと言って、それでよいというわけではない。



むしろ、あまりにも人間らしい本性としての「損得勘定」に「理性」や「知力」というこれもまた人間にのみ与えられた能力をぶつけて、打ち破りたいという欲求がある。



歳を重ね、経験を積み、その欲求は日増しに強くなってきている。昔の自分に比べればほんの少しでもましな人間になってきているのだろう。損得勘定でのみ動くよりは「理性」や「知力」を優先させて、客観的に、社会的に、「するべきことをする」、「あるべき姿になろうとする」 自分になってきている気がする。



それをどのように実行していくのか。



それをどのように継続していくのか。



暗中模索の旅は・・・



いや、



光に満ち溢れた栄光への旅は、



始まったばかりだ。