砂金とアサリと心配りと

砂金とアサリと心配りの共通点は何でしょう?



その心は「自分で探さなければ見つからないもの」。



5月に入ってから「砂金採り」と「潮干狩り」を休日に楽しんだ。



前者は30分700円というあくまで「体験企画」に過ぎなかったのだけれど、長靴を履き、腰をかがめて、パンニング皿という専用の大きなお皿を使っての本格的なものだった。30分という限られた時間の中で大量の砂をパン皿に取り、少しずつ砂を振い出していく。少しコツはあるけれど、慣れてしまうと結構手際よくできるもの。何分かの間に何粒かの砂金が取れるのもちょっとした興奮があって楽しい。結局30分間で7、8粒を見つけ、ラミネート加工して持ち帰った。一攫千金とはいかなかったが(笑)、ちょっとしたお土産になり、楽しい時間を過ごすことができた。



後者は普通の「潮干狩り」。一昔前ではありえなかったのかもしれないが、入場料を支払う潮干狩り場。到着したのがお昼過ぎだったこともあり、なかなかアサリが取れなくて一苦労。それでも場所を変え、根気よく掘り続けることでそれなりの量のアサリが取れた。これも砂金と同じように何度も掬いあげる砂の中に時折埋もれているアサリを発見する時の喜びと言ったら! 獲物を持ち帰り、塩抜きを2,3時間かけて行い、お味噌汁にしたり、酒蒸しにしたりで楽しく、美味しい思いをすることができた。



「心配り」・・・?



最近人の「心配り」に気づくことが幾度となくあり、感謝の気持ちに満たされることが何度も続いた。改めて考えてみると人のさりげない「心配り」も砂金やアサリと同じように自分で必死に探さなければ見つかりにくいものなのではないかと気づいた。逆に言うと、意識を集中し、工夫さえすれば多くの「心配り」を見つけられるのではないかと。



立ち止まってよく考えてみると、今回体験した「砂金採り」も「潮干狩り」も人間の手によって捲かれた砂金とアサリを探す「体験企画」だった。



であれば、私たちが生活している「社会」も人のさりげない「心配り」が散りばめられた「体験場」と言えるのではないか。人の心を温かくさせる「心配り」をもっともっと見つけるために、意識を向け、工夫をし、必死に探したいと思った。そして、自分でもあちらこちらに「心配り」を捲いていきたいと。



砂金とアサリと心配りと



みんな同じでみんないい。