移動する水槽

「移動する水槽」



とは、



パック旅行のこと。



正式な言葉ではなく、イタリアにパック旅行をした時に自分がそう感じたという話。



バスが水槽で我々が魚だ。



周りの人たちへの見世物ではなく、我々がイタリアの数々の名所を巡るのだけれど、水槽が移動するだけで我々魚はその中から出ることは許されず、ガラス越しにしか何も見ることはできなかった。



もちろん実際にはバスから降りてロミオとジュリエットのモデルになったと言われるバルコニーを見たり、ピサの斜塔に上ったり、コロッセオに入ったりはした。



それでも所詮は水槽から出ることはできない魚でしかなかったし、水槽の外が海水で溢れ、淡水魚は生きていくことができないことを考えるとありがたい話でもある。



個人旅行が試行錯誤を繰り返し、失敗やトラブルがつきものの本当の「旅」であるのに対し、団体旅行は効率と安全性を追求して作られた商品=パック旅行であり、全くの別物であることをきちんと理解していなかったことが原因と言える。



それでも違和感を感じ続けたのは、単に個人旅行と団体旅行の違いだけではないことを知っていたからかもしれない。



考えてみると、我々日本人の生き方全体にも同じことが言えることに気がついた。



日本人の大多数が日本語しか解さず、海外に出掛けたとしても水槽から出ることはなく、世界の趨勢を知る手段はテレビやネットの二次的、三次的ニュースに限られていることを考えると、やはり世界で揶揄されるように我々はガラパゴス化していると言わざるを得ない。



肌感覚の危機感がない限り、それが行動に昇華することはあり得ない。日本国というひび割れた水槽でしか生きることができない日本人という魚の生きる道は二つしか残されてはいない。



一つは突然変異を起こし、海外という大海でも生き抜く力を持った魚を一匹でも増やしていくこと。二つ目は、水槽自体の水を少しずつ海水に近づけていき、いずれは全種類の魚が海水でも生き残れるように変えていく方法。



二つ目の方法を取るためには、強力な政治的リーダーシップが必要だ。残念ながら、今の日本にないものと言わざるを得ない。であれば、一人ひとりが自ら突然変異を志向し、世界へ飛び出ていくしかないのではないか。或いは、企業がそれぞれの業界で生き残りをかけて海外を志向する戦略の結果として個人に力をつけさせることを期待するかだ。



いずれにせよ、ひび割れた水槽では我々の命はそう長くは持たない。