「感動する」ということは、「感動させるもの」に出合うかどうかではなく、「感動する心」を自分が持っているかどうかにかかっている。
我々は知らず知らずのうちに環境に身を委ねてしまいがち。身の周りのことに対して主体的ではなく、反応的になりやすいということ。
感動する、しないという表現はあたかも感動すべき対象物が自分の外側にあって、それを体験するかどうかで決まってしまうようなニュアンスを包含している。
かく言う私もそんな一人だった。
やっかいなのは自分でそういう状態でいることに気がつきにくいこと。
自分の心が敏感であれば、あらゆるものに心が反応するはず。
世界は奇跡で満ち溢れているのだ。
要はそれに気がつくかどうか。
ほんの一部分だけれど、そんな奇跡の世界を感じられるようになったような気がする。
今夜食べたイタリア料理はまさにそんな奇跡のお店だった。
シェフの腕前はもちろんのこと、オーナーシェフのお客様に喜んでもらおうとする真摯な姿勢がスタッフの笑顔やお店全体の雰囲気に表れていて、最高に気持ちのよい空間と時間が創られていた。
そのことに気づけたことが嬉しい。
自分にも「感動する心」があったという証拠。
明日は何に感動できるだろう。
感動するだろう。