中庸の発掘

昨日のブログの最後に「中庸」という言葉を使った。
http://d.hatena.ne.jp/norio373/20110916



私の記憶が正しければ初めてその言葉に出合ったのは高校二年の倫理の時間。不思議なほどその時ノートに書いた中庸という言葉の輪郭と字の濃さが記憶に残っている。その言葉の持つ本来の意味とは別に若者特有の思い込みと未来への無限の可能性を背景に強い嫌悪感が刷り込まれたからだろう。



大辞林によると「中庸」とは、



考え方・行動などが一つの立場に偏らず中正であること。過不足がなく、極端に走らないこと。また、そのさま。古来、洋の東西を問わず、重要な人間の徳目の一とされた。中道。



また、儒教における四書の一つでもあり、その中心的な概念の一つでもあるそうだ。「論語」の中にも登場するらしい。



Wikipediaで更に調べてみると、儒教の中庸とは別にギリシア哲学でもアリストテレスの・・・

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中庸(ちゅうよう)とは倫理学(特にアリストテレスのそれ)において、徳の一つ。

『ニコマコス倫理学』のなかで、アリストテレスは人間の行為や感情における超過と不足を調整する徳としてメソテース(中間にあること)を挙げた。メソテースとはギリシャ語(μεσοτης, Mesotes)であるが、英語ではGoldenMean(又はHappyMean)と言う。日本語訳ではこれに中庸という儒教用語をあてた。例えば、勇気は蛮勇や臆病の中間的な状態である時はじめて徳として現れる。アリストテレスによれば、この両極端の中間を知る徳性が思慮(フロネーシス、実践知)である。

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あ、こんなところで高校時代の倫理の時間と結びついた!



自分の中の「中庸」を「発掘」した気分。



歳を取り、「中庸」の大切さをしみじみと感じる自分がいる。



敢えて極論を展開するいたずら心を持っている自分もいる。