無限の自由

昨日のブログの最後に「無限の自由」という言葉を記した。
http://d.hatena.ne.jp/norio373/20120413



「行動規範の奴隷になることは、魂が奴隷になることを意味しない。むしろ、『無限の自由』を勝ち取るための唯一の方法と言える。」と。



「無限の自由」とは何を意味するのだろう。



果たしてそんなものは実際に存在し得るのだろうか。



そもそも「自由」とは何ぞや。



その言葉の概念は元々日本語には存在しなかった。



文明開化と共に欧米から輸入された。福澤諭吉が「西洋事情」に出てくる"liberty"に「自由」という日本語をあてて。



Freedom!



映画「ブレイブハート」でスコットランドの独立を勝ち取るために戦ったメル・ギブソン扮するウィリアム・ウォレスが処刑される瞬間に叫んだ言葉も「自由」であった。



自由であるということは自分が自分の意思で行動できること。



本来そこには制約は存在せず、僅かであれ制約が介在する瞬間に自由はその自由を奪われる。



しかし、現実には法律や慣習、周りの目、常識と言ったものが多くの制限を発生させる。現実の世界では「限定的な自由」が「普通の自由」であり、「無限の自由」は空想の世界にしか存在しない。そう考えられるのが普通。



故に、誰もが「無限の自由」に憧れ、人々が心の奥底で探し続けるのであろう。



メーテルリンクの「青い鳥」と同じように。



そして、



それは「がんじがらめの不自由さ」の中にあることがわかった。
「制約の中にある答え」http://d.hatena.ne.jp/norio373/20120406



「行動規範の奴隷」になることで初めて「魂の解放」ができるのだ。