相対性の罠

我々日本人が嵌っているのは「相対性の罠」なのではないか。



そんな思いが頭を掠めた。



八百万の神々が住むとされる日本にあってこの世に存在するものは全て相対的であると考える傾向が日本人にはある。



一方、欧米ではキリスト教の影響が色濃く、現実的には相対的なことも多いけれど、普遍的なもの、絶対的なものがあるという考え方も広く浸透している。



日本人が今抱えている問題の多くはこの相対性に起因しているのではないか。



国際政治における存在感のなさは言うまでもなく、経済においてもグローバル企業が次々に生まれていく中、日本企業のマルチナショナル化は遅々として進まない。



相対性の中で判断基準を求め、周りを見渡そうとするものの物理的にも言語的にも視界は届かず、理解は及ばない。見えずわからずで右往左往し、その挙動不審な態度が国際的な信頼を欠き、国家間関係をギクシャクさせ、国際社会から仲間外れにされる大きな原因とまでなっている。



とは言え、



たとえ相対性が罠であったとしてもそれが我々の長い歴史の中で培われたものであり、アイデンティティなのであれば、自己を否定するのではなく、むしろ受け入れ、そこからどうするのかを考えるしかない。



ないものに焦点を絞って考えても不幸になるだけなのだ。



日本人が持っているもの、持っていないものを逆手に取って、独特の個性や日本人らしさとして打ち出していくしか道はないのではないか。



迎合せずに。



Only oneであることの孤独に耐え、嘲笑を無視し、罵声に笑顔で応える強さを纏って。



日本人としての誇りを醸成してゆくまで。



その道のりを歩き切る勇気が世界に認められるまで。