全体として完璧

 

日本人には完璧主義者が多い。

 

 

 

あくまで仮説に過ぎないけれど、剣道、柔道、書道、華道、茶道のように「道」という観念を様々なものに当て嵌め、それを極めることに時間とエネルギーをかけてきた。それはやがて美徳となり、習慣となり、文化となった。道を極めるための思考パターンは完璧さを追い求め、やがて完璧主義は国民性にまで昇華した。

 

 

 

それがこの国の強さの背骨であり、またアキレス腱とも言えるまでに。

 

 

 

かつて最強と謳われた家電メーカー群や今でも世界一を誇るトヨタをはじめとした強力な自動車産業は「完璧主義」があってこそその力を発揮できたと言っても過言ではない。

 

 

 

逆に、マイナス要因としては「完璧主義」には時間がかかること、完璧を追い求めることで犠牲になるものが少なくない。

 

 

 

例えば、長時間労働。効率性は問われず、完璧な仕事をするために最後の5%の詰めにやたらと時間がかかってしまう。

 

 

 

欠点探しに陥りやすい人間関係もまた弊害の一つ。人のできない部分、苦手な部分に目が行き、「これが治ったら、いいのに・・・」的なものの見方が表面的な人間関係を作り、人の成長を妨げる。

 

 

 

初めから完璧なものなど存在し得ないにも拘らず、最初から完璧なものを作ろうとして結局何も始まらない。

 

 

 

昨日のブログの最後にこう書いた。

 

 

 

「完璧な人間はこの世に存在しないけれど、互いが互いの欠けているところを埋めることができれば、『全体として完璧』とは言えないだろうか。」(視覚派 VS 聴覚派

 

 

 

そう。

 

 

 

我々はあまりにも「個」に完璧を求め過ぎている。

 

 

 

改めて世界を見渡してみると、

 

 

 

光と影、白と黒、男と女、S極とN極、プラスとマイナス、東洋と西洋、視覚派と聴覚派・・・

 

 

 

組み合わせることで、完全完璧を作れるものが多いことに気づく。

 

 

 

 個として完璧完全を求めることは強さや進化を追求する反面、失うものも少なくない。

 

 

 

我々は「全体としての完璧」を意識すべきステージに入っているのかもしれない。