その日に備えて ー地上最後の日ー

 
2013年もいよいよあと明日一日を残すのみとなった。
 
 
今年の月一企画「その日に備えて」も最終回を迎える。
 
 
前半は国家的、地球規模のクライシスをテーマに「その日」を、後半は個人的なリスクを想定し、現実に取るべき具体的な行動を身近に考えた。
 
 
最終回は、その両方に当て嵌まる「地上最後の日」=「自分の死」について暫し考えてみたい。
 
 
いつかは死ぬ。
 
 
そんな当たり前のことも普段はなかなか考える機会はない。
 
 
時々遭遇する身内や知り合いの死の度に黒い世界が頭の中を占拠する。それでも、敢えてその世界を探索しようとはしないし、むしろ無意識的に死を自分とは無関係な別世界の出来事であるかのように振る舞い、頭から押し出そうとする。そして、時間が喪失の痛みを癒してくれる頃には死の存在も意識しなくなる。
 
 
今日は敢えてその世界を頭の中に浮かべて「その日に備えたい」。
 
 
初めて村上春樹氏のノルウェイの森を読んだ時、特に印象に残ったのが死についての考察だった。
 
 
死はある日突然別の世界からやってきて人を捕えるのではなく、生を受けた時から内包されている。死が向こう側で生はこちら側にあるのではなく、生きること、命自体に死が内在している。
 
 
そんな内容だったと記憶している。
 
 
人は生まれてきた瞬間から死という不治の病を背負って生きていく。
 
 
現代社会においては何がいつ起こるかわからない。地球規模のカタストロフィまで行かずとも予期せぬ事故や事件に巻き込まれて明日命を落とすことだってあるだろう。
 
 
にも拘らず、誰も身近に自分の死を考えないのは人間の脳が(原則として)楽観的にできているからではないか。
 
 
平均寿命を考えるとまだあと数十年という時間が残されている。
 
 
しかし、明日突然命を落とさないとも限らない。それは明日でなくても1週間後かもしれないし、1年後かもしれないし、3年後、5年後、10年後かもしれない。
 
 
しかし、人類の、地球や宇宙の歴史を考えるとそんな時間は一瞬の光。
 
 
そう考えると1年後も10年後も50年後もそれほど変わりがないのではないか。
 
 
さすれば、
 
 
大事なことは、どれだけ生きたかではなく、限られた時間の中で何をしたか、どう生きたかがが問われるということになる。
 
 
この人生でするべきことをしたのか、学ぶことを学んだのか、周りの人にどう接してきたのか、どれだけ与えられたのか・・・
 
 
自分の死をテーマに考えることはそのまま自分がどう生きるかを考えることとなった。