2つのKY

KY



「空気が読めない」



の略としてしばらく前に話題になった。



見ることも触ることもできない空気を「読む」ことが当たり前のように求められ、できないとKYと言われ、吊るし上げられる。



ここ数日の間、主体性や相対性について考えてきたけれど、このKYこそこの国で相対性が異常なほど(?)重要視されてきたことの象徴と言えるのではないか。



一方で、そのKYも誰もが使ったり、市民権を得たりすることなく、あくまで流行り言葉として消えようとしているのも事実。



「もう一つの相対性理論http://d.hatena.ne.jp/norio373/20130928
が色褪せ始めた証とも言える。



実際、同じKYでも「空気が読めない」ではなく、敢えて「空気を読まない」ことの略語で使われることもあると耳にした。



2つのKYのどちらが市民権を得るのか、或いは、両方とも消えゆくのか、



その行方は、



この国の未来をも占う問いのような気がしてきた。



もう誰にも読むことはできない。