イスラムに生き続ける大和魂


イスラム国による人質事件は最悪の形で終結した。


被害者の2人のご冥福を祈るとともに2人の死を無駄にしてはならないという思いを強くした。


特に後藤健二さんには多くの方々から死を悼む声、彼の実績や彼が残してきたもの、彼が成し遂げようとしていたもの、追悼の言葉が届けられた。


彼の死を惜しむことに異議を唱える人はいない。


彼が無念に思っていたことも容易に想像がつく。


そこに寄り添い、悲しむことが我々のすべきことという論調も十分に納得できる。


それが人として、同胞として当たり前であるから。


しかし、


我々が忘れてはならないこと、意識すべきこと、学ぶべき大切なことは、


彼には覚悟があったこと、


ジャーナリストとしての信念や使命感や死の覚悟さえ持っていたこと。


ではないか。


幕末期に松下村塾を開き、多くの志士たちを輩出した吉田松陰の言葉を思い出す。


死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし


吉田松陰の辞世の句を借りて後藤さんの思いを代弁してみたい。


身はたとひ
イスラムの砂漠に朽ちぬとも
留め置かまし大和魂


大和魂」は「ジャーナリスト魂」の方がよいかもしれないけれど、彼の地にこれまで投じてきた日本国の人道的、経済的支援がここで朽ちぬよう我々自身も思いを、決意を新たにしなければならない。


そのためにも敢えて「大和魂」としたい。


それが彼の死を意味あるものにするのだから。


ここからの我々日本人のすべきことに貴重な示唆を与えてくれるのだから。