鞭で強いる勉強から

 

勉強という言葉がある。

 

その語源は「鞭で強いる」から来ているという話を聞いてふぅむと思い、改めてネットで調べてみた。

 

するとやはり「勉めて強いる」と書く通り「無理やり」という概念が強い。

 

勉強(べんきょう) - 語源由来辞典

 

子どもが遊び好きなのは言うまでもなく、放っておくと遊んでばかりになってしまうのは当然のこと。

 

「勉めて強いる」ことを全面的に否定するつもりはないけれど、それでも「学び」の楽しさをもう少し上手く伝えられないか、できる教師や学校や一部の理解ある親に任せるのではなく、全体として「学びの楽しさ」を引き出すような施策が取れないか、そんなことをつい夢想してしまう。

 

先日、子どもたちの通う小学校で「一日学校公開」があった。

 

授業参観をして思ったことは、先生方が工夫を凝らして子どもたちを惹きつけてはいたものの、授業自体は数十年前のそれと大きな変化はなかったこと。(特別授業の企画力には感心しきりだったにも拘らず。例えば、「なかよしアート」は全学年から一人ずつ参加してチームを作り、「なかよし学級」の子と一緒にペナントを作るという授業は素晴らしかったし、全盲の人を呼んでの講演会も感情に訴える部分と現実の状況と実際の盲導犬によるデモンストレーション等があって感動的でさえあった)

 

確かに、国語や算数は扱う材料が大きく変わることはなく、理解すること、推測すること、(漢字や計算を)身につけるための反復練習などは自然と最も効率の良い(同じ)手法に落ち着いてしまうのだろうけれど、IT、ICTが恐るべきスピードで進む現代社会を考えると「鞭で強いる勉強」ではなく、遊び(ゲーム)と学びを一体化するような学習方法を取り入れてもいいのではないか、と思った。

 

産業界では当たり前の「イノベーション」(革新)が教育の世界にもっともっと入っていってもよいのではないかと。

 

教育産業においては日進月歩の進化をしていて、公の教育だけが取り残されているのかもしれないけれど、グローバル化が急速に進んでいる世界を考えると「鞭で強いる勉強」を続けてよいのか、「勉強から学びへ」と変わる必要があるのでは、と老婆心ながら感じざるを得ない。

 

このトピックは一筋縄ではいかないことは最初からわかっていた。

 

明日は「学びのイノベーション」について考えてみたい。