不協和音の合奏

 

何かを目指して、精一杯頑張っていても、時に不協和音に悩まされることがある。

 

理想を求め、真っ直ぐ前を向いて歩いていても、周りの人が同じペースで、同じゴールを目指して歩いているとは限らない。

 

一人ひとり経験も能力もキャパも価値観も考え方も異なることで進むスピード、辿るコース、途中の休憩回数は変わって当たり前。

 

それを敢えて同じ集団で歩んでいこうとすれば、疑問や不満が湧いてくるのはある程度やむを得ない。

 

道のりが険しくなればなるほど、ペースが速まれば速まるほど、体への負荷が重くなり、苦しくなり、不平不満が噴出する。

 

寛容さが使い果たされるとそれまでよかった関係性さえ冷え込み、不協和音が奏でられる。

 

こういう時こそ我慢のしどころだ。

 

辛いときを異なる視点で楽しむよう心掛ける。

 

周りの意見に耳を傾け、一つひとつをしっかりと受け止め、誠意を持って対応していく。

 

不協和音の合奏も結局は一人ひとりの演奏の仕方から変えていくしかない。

麦酒の園

 

真夏の夜をビールガーデンで楽しんできた。

 

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前から一度は行きたいと思っていたショッピングモールの麦酒の園。

 

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食事はモール内の人気店からの調達でどれも見た目以上に美味しい!

 

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二杯目は「よなよなエール」。夕刻にぴったりの美味しさ。

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すっかり暗くなった帰り道では至る所で夏祭りが執り行われていた。

 

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明日から頑張る力が湧いてきた。

 

辛い辛さ

 

昨日のブログを書いて(辛さを抱くのではなく)、改めて「辛い」(つらい)と「辛い」(からい)は同じ感じなのだと気づいた。

 

筆者は「辛い」(からい)もの好き。

 

ピザにはタバスコが欠かせないし、サンドイッチやタコスにハラペーニョはマストアイテム。一味も七味も振りかけなきゃ気が済まないし、カレーも辛ければ辛い方が美味しく感じられる方。

 

汗をダクダクかきながらハフハフしながら食べるのがいつの頃か好きだった。

 

さすがに歳を重ねるごとにその傾向は薄まりつつあるけれど、辛いもの好きは恐らく一生変わらないだろう。

 

ふと、思った。

 

マゾかもしれない。

 

辛い(からい)は辛い(つらい)と同じ漢字(感じ)。

 

それを自分は気づかぬうちに求めていて自分の中に取り込んでいっているのかも、と。

 

 

その耐性を身につけるためにも。

 

艱難辛苦を

 

 

 

 

辛さを抱くのではなく

 

辛さを抱く

 

辛さを抱きしめることを「辛抱」という。

 

辛い時を耐える、我慢する、耐え忍ぶ。

 

それが美徳だった時代はとうに過ぎ去った。

 

辛いことは手放せばいいし、辛いときには逃げたらいい。

 

そもそも辛いことにぶつからないようにすればいい。

 

心の片隅に残るものがないではないけれど、敢えてそう主張したい。

 

と言っても、楽をしたらいいということではない。

 

嫌なことから逃げればいいという意味でもない。

 

大事(だいじ)を成そうとすればそれ相当の忍耐や努力が必要だ。

 

それは古今東西永遠に変わらない真実。

 

重要なことは、楽しむこと。

 

視点を変えること。

 

世界を相手に戦う最近の若手スポーツ選手に悲壮感はない。

 

大変なことも、辛いことも、嫌なことも、見方を変えれば、チャレンジ(挑戦)になる。

 

成長のチャンス(好機)となる。

 

辛さを抱くのはもうやめよう。

 

成長の糧を抱きしめていると思えばいいのだから。

 

ちょい呑み

 

吉野家の吉呑みを楽しんでいる。

 

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タコライスが目的で来たのにハバネロソースを見たらついビールを注文してしまった。

 

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「吉呑み」から始まったと言われる「ちょい呑み」も試してみると悪くない。

 

人生のちょっとした愉しみを満喫している。

 

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あら、二杯目に突入・・・

 

禁門の変の日に

 

自分が何を心の底から求めているのか?

自分がこの人生でしたいことは何なのか?

自分の成し遂げたいことは何なのか?

 

日々のルーティーンに週毎、月毎の目当て、時折降りかかってくる厄介な出来事にほんのちょっとのささやかな楽しみ。

 

そんな毎日をなんとかやり過ごしているうちに人生の半分が過ぎ去ってしまった。

 

もしかするとそれは半分ではなく、三分の一かもしれないし、四分の一かもしれない。はたまた九割九分が終わっているのかもしれない。

 

残された時間がどれだけであろうと宇宙の時間と比べたら大差はない。

 

もう一度、

 

冒頭の質問を自らに投げ掛けたい。

 

自分自身が納得いくように生きたいから。

 

自分自身が誇りに思えるような生き方をしたいから。

 

日々行なっていること、瞬間瞬間考えていることを

 

身体を絞るように、

 

絞り削り研ぎ澄ましていく。

 

武士以上に武士らしく生き抜いた新選組のように。

 

禁門の変が起こった日に。

 

参考)

新選組:「蛤御門の変」参戦の新史料 長州勢を鉄砲撃退

毎日新聞


新選組:「蛤御門の変」参戦の新史料 長州勢を鉄砲撃退


毎日新聞

見つかった長谷川軍記による日記。禁門の変が起きた元治元年7月19日には、新選組が旧東九条村で長州勢と鉄砲で撃ち合う場面の記述がある=京都市南区で2017年7月18日午後5時32分、小松雄介撮影
 幕末に起きた武力衝突「蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)」で新選組が戦闘に加わっていたことを示す日記が、京都市南区の国登録有形文化財「長谷川家住宅」で見つかった。「池田屋事件の研究」などの著作がある中村武生・京都女子大非常勤講師(幕末政治史)が18日、発表した。都の入り口だった要の場所に布陣して長州藩と激突し、鉄砲で撃ち破ったことなどが生々しく記されていた。
 蛤御門の変では、長州軍が京都に出兵。新選組が従っていた京都守護職松平容保(かたもり)の軍と戦って敗れ、朝敵となった。しかし、各地の浪士が集まった新選組が当時果たした役割や待遇は諸説あり、明確になっていなかった。
 日記は、当時の住宅の当主、長谷川軍記が文政5(1822)年~明治4(1871)年に見聞きした出来事をまとめたもの。2015年に土蔵のタンスの中から見つかった。
 蛤御門の変が起きた元治元年7月19日(1864年8月20日)には「新選組が立ち向かい鉄砲を撃ち合い、長州方は撃ち負けて、当村の野辺を西へ逃げ去った」などと記載されていた。住宅は蛤御門から約5キロ南で都の南の入り口だった旧東九条村にある。
 また戦闘が始まる約1カ月前には、「会津様御下宿」「壬生浪士組御下宿」の文字と共に、具体的に泊まった農家などの名が記載されていた。壬生浪士組新選組を指すとみられる。
 中村さんは「新選組が旧東九条村で長州勢と鉄砲を撃ち合い勝利した事実はこれまで知られていなかった。また、通説では鴨川の河原に野営したとされており、農家に泊まっていたことも当時の具体的な動向を知るうえで興味深い」としている。【宮川佐知子】




https://mainichi.jp/articles/20170719/k00/00m/040/193000c

 

 

 

思考の贅肉

 

身体に付いた贅肉を削ぎ落とさなけらばならない。

 

シュッとするために。

 

昨日のブログにそんなことを書いた。(シュッとする)

 

今日思うのは、削ぎ落とすべきは身体に付いた贅肉だけでなく、思考する上で積み上がる余分な考え。言わば、思考の贅肉だ。

 

何かを考えるときに大事に思うこと、重要だと感じることは止めどなく出てくる。

 

仕事に精通していればいるほど重要ポイントや解決策は複数出てくるもの。

 

しかし、それを全て完璧にすることは物理的に不可能。幾ら一所懸命に取り組んだとしても結局余ってしまう。贅肉になってしまう。

 

ならば、贅肉は落とせばいい。

 

身体を絞るように、思考も絞ればいい。

 

削ればいい。

 

研ぎ澄ませばいい。

 

本当にしたいこと、その核心が姿を現わすまで。