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透明になる

 

何かを隠そうとしたり、何か違うものに見せようとしたり、何か特別なことをしようとするからぎこちなくなる。

 

不自然になる。

 

ありのままでいい。

 

自然のままでいい。

 

見栄も期待も常識も取っ払って、透明になればいい。

 

自分を信じて。

 

この世の中の仕組みを信じて。

 

 

尾張名古屋にて

 

今日は名古屋に来ている。

 

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街は活況を呈しているけれど、日経平均株価は19000円を割れてしまった。

 

トヨタ頼みにならぬようもう一度働き方、あるべき姿について深く考える必要があると思った。

 

尾張名古屋にて。

 

 

 

 

気まずい思い

 

ショッピングセンターで買い物をしていた時のこと。

 

お昼を食べようとサブウェイサンドウィッチに入って注文を始めると学生アルバイト風の若い店員さん(男子)と目が合った。

 

思わず見つめ合い、心の中で呟く。

 

「あ、同じメガネ・・・」

 

なんか気まずい気分。

 

店員さんは気づいたかどうかわからないけれど、この気まずさは何なんだろうと思った。

 

年齢に差があるのに同じメガネということは自分には合わない若過ぎるメガネを選んでしまったってこと?

 

はたまた何処でも誰でも買えるメガネを選んだ自分に後悔の念があったから?

 

友人と会った時に着ている服がたまたま一緒だとそんな気分になる。

 

自分らしさやオリジナリティが問われる時代である一方、デフレ社会は変わらず、大量生産、流通には規格品が出回っていることも事実。

 

そんな端境期(はざかいき)で感じる気まずさも前を向いて進もうとしていることの裏返しと捉えれば、少しは気持ちも楽になる。

 

それでも心の中では身につけるもの一つひとつにもう少し自分らしさやこだわりをもっと持ちたいと思っていた。

 

魔法の杖

 

魔法の杖はない。

 

時に魔法のような出来事が起こって、それを起こした人を魔法使いのように感じるれことがあるけれど、それは単なる誤解。思い過ごし。

 

自分の至らなさを棚に上げて、その人の陰の努力や苦労を見ようとしていないだけ。

 

それでも他の誰かに自分が魔法の杖を持っていると思われるのはまんざらでもない。(なんていやらしいんだろ)

 

そのために何ができるだろう?

 

そこにもまた魔法の杖はない。

 

 

 

誰かの引き立て役

 

時には誰かの引き立て役になってみてもいい。

 

ふとそんな風に感じた。

 

自分が自分の人生の主人公であることは間違いないし、その物語が充実したものになるように頑張ることを否定するものではない。

 

それでも時折立ち止まって、自分のためではなく、他の誰かのために頑張ってみるのも悪くない。

 

自分、自分という自分ファーストではなく、一歩引いて、身近な人、頑張っている家族、一所懸命な仲間を応援してみる。大切な人のためにできることを全てしてみる。

 

誰かの引き立て役になってみる。

 

そこから見える世界は決して悪くはないし、異なる価値観という想定外のボーナスが手に入るかもしれない。

 

時には誰かの引き立て役になってみよう。

 

 

いい加減にする

 

それなりに混雑している電車に乗っていた時のこと。

 

筆者は立っていて、本を読んでいるといきなり見知らぬおじさんから怒鳴られた。

 

「もういい加減にして下さい!」

 

全く心当たりがなかったので半ば睨みつけるようにおじさんを見据えると、驚愕の事実が判明した。

 

筆者が読んでいるハードカバーの本から垂れ下がった栞(しおり)の紐の先っちょがおじさんのハゲ頭をふらぁ、ふらぁと擦っていたのだ。

 

新快速の座席は昔ながらのボックス型になる可動式で進行方向に向かって座るタイプ。立っている人と座っている人の距離が近いということもあるからなのだけれど、それにしても間が悪かった。

 

それに気づいた瞬間、睨みがちだった目が謝罪の目に変わり、「あ、ごめんなさい。すみませんでした」に変わった。

 

我ながら変わり身の速さに感心したくらい(!?)。

 

たとえ意図的でなかったとしても、おふざけはいい加減にしなければならない。

 

 

芸術作品の定義

 

今日は先日のブログ「無限の世界」の続きの話をしたい。いわばパラレルワールドで分かれたもう一つの話。

 

そこで書いた内容はおよそこんなところ。

 

一人ひとりの人間が絵を描いたり、音楽を奏でたり、物語を創ったりする毎に世界が再構築され、そこには無限の世界が拡がる。それをSFの世界では「パラレルワールド」と呼び、少しずつ異なる世界がこの宇宙のどこかに(並行的に)無限に存在するという。

 

人間が絵を描いたり、音楽を奏でたり、物語を創ったりすることで生まれる世界があることは間違いない。

 

と同時に、多くの人から評価される作品は、"work of art"(芸術作品)と呼ばれ、それ自体が愛され、価値が生まれる。


そこで思ったのは、芸術作品が芸術作品足らしめるものは何なのだろう?ということ。

 

一枚の絵画を見て、それが素晴らしいと感じる人がいれば、全く感じない人もいる。

ある音楽を聴いて、それが素晴らしいと感じる人がいれば、全く感じない人もいる。

一冊の小説を読んで、それが素晴らしいと感じる人がいれば、全く感じない人もいる。

 

多くの人が評価するかどうかが芸術作品としての定義ということなのだろうけれど、なら、多くの人が認める価値=素晴らしさ=芸術とは一体何なのだろう?

 

絵画や音楽、物語という作品が創造される度に新しい世界が構築される。

 

そこに異なる世界が作られるかどうか、その世界観が豊かかどうか、そこにある見えない世界を人々が感じられるかどうか。

 

それが芸術作品として評価され、価値が生まれ、資産や人類の宝とされる基準なのではないだろうか。

 

であるならば、芸術作品は新しい世界へのドアのような役割も担っている。

 

そんな気がした。