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ごんぎつね

 

小学4年生の娘の「新しい国語 四下」の最初の課題は「ごんぎつね」。

 

娘の音読の宿題に付き合って数十年振りに新美南吉の物語を読み返してみた。

 

「村の外れの山の中に、ひとりぼっちの子ぎつねが住んでいました。」

 

から始まるお話の概要はこうだ。

 

ごんぎつねが兵十(ひょうじゅう)の獲ったうなぎをひょんなことから盗んでしまう。その後、兵十のお母さんが亡くなり、死ぬ前にうなぎを食べさせたかった兵十の気持ちを知る。申し訳なく思ったごんぎつねは罪滅ぼしにイワシを盗んで兵十にあげるも兵十が盗んだと誤解され、また酷い目にあってしまう。ごんぎつねはますます兵十に悪いと思い、今度は山から採ってきた栗や松茸を毎日こっそり兵十の家に届けるようになる。不思議に思った兵十が友人に相談すると、それは神様からの贈り物ではないかと言われる。必死になって栗や松茸を採ってきたごんぎつねは面白くないと思いつつもいつものように栗を届けようと兵十の家に入っていった時、盗みに入ろうと誤解した兵十に撃たれてしまう。

 

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子どもの頃に読んで以来覚えていたのは題名と最後のシーンだけ。こうして読み返すとごんぎつねと兵十の心情が波のように打っては返し、すれ違う様がもどかしい。最期にやっと重なり合うのがごんぎつねの死という皮肉で悲しい終わり方も複雑な気持ちにさせられる。

  

人生長く生きていると、誤解やすれ違いは簡単に起こることを体験的に知っている。誰かのためにしたことがうまく伝わらなかったり、また別の誤解を引き寄せたりするのは日常茶飯事だ。

 

それをどう感じ、どう回避するのかを考えるのは確かに意味のあること。

 

小学生の時にそれをする意義はもちろんあるし、大人になってからも同じように誰かの想いや行いを振り返り、吟味する、そんな機会を持たなければならないと思った。

 

誰かのうなぎを取っていないだろうか。

誰かから栗を貰っていないだろうか。

誰かを間違って撃ったりしていないだろうか。