コンテンツVS作品

「コンテンツという言葉が嫌でたまらない」



ある音楽プロデューサーが口にしていた。



アーティストが自分の命を振り絞って作り上げる「作品」が「コンテンツ」という言葉で一括りにされ、有象無象のデジタルの箱の中に収められてしまう。



それが許せないと。



一方で、それがデジタル社会の日陰であると同時に日向部分でもあることも我々消費者は知っている。受益者の立場から考えると疑問の余地はない。だからこそデジタル社会は多くの問題を抱えつつもひたすら前進していく。



文化や時代の生産者とも言えるアーティストやクリエーターはますます清濁併せ呑む器量が求められる様になってきた。時代を前に押し進めるために自分たちの責任を噛み締め、受け入れてもらうしかない。



ハリウッドの往年の名作も最近のブロックバスター映画も「コンテンツ」の一つになっている。それは「作品」としての地位を放棄して、コモディティ化しているということでは決してない。あくまで同じ規格の上に乗って、走ることのできる「新幹線」であるということにほかならないのだ。



だから、同じレールの上を走ることに失望をしてはいけない。嘆く必要もない。



クリエーターは、アーティストは、芸術作品と呼ばれるものをこれまで通り命をかけて生み出し続けれはよい。そのレールの規格さえ間違わなければ時代がいくら変わったとしても、コンテンツの一つと呼ばれたとしても、そのレールの上で走るスピードと姿形は誰にも真似されることはない真の芸術作品であり続けるのだから。



コンテンツVS作品



ではなく、コンテンツ=芸術作品 と呼ばれるようにすればよい、のだ。