他人事の活用

 

「他人事(ひとごと)」は、普段否定的に使われることが多い。

 

自分のことならともかく他人事だと真剣に考えない、そんな風に使われる。

 

他方で、自分の意見や考えを伝える際、それが否定されると感情的になりやすい。

 

単なる意見なのに否定されると全人格を否定されたように感じてしまう。

 

昨日のブログではそれは単に慣れていないだけ、思考訓練が足りないせい、と書いた。(ディベートの価値)

 

ディベートを通して本来自分の意見と反対の立場を主張することで意見を自分から独立させることができるようになる。

 

言わば、自分の意見を「他人事」にする。

 

もちろんディベートで意見を主張するときには熱意を込めなければならないし、話している時にはそれが自分の意見だと信じ、正論として堂々と発表しなければならない。

 

しかし、それが一旦不利になり、負けてしまうような場合は深追いする必要はない。

 

Don’t take it personally.(個人的に受け取らないで)

 

まさに他人事の活用時である。



ディベートの価値

 

自分の意見を求められるととかく口が重たくなるのが日本人。

 

そんな風に書き始めた昨日のブログ「活私奉公」では、自分の意見を持つよりも周りの空気を読んだり、長い物には巻かれろのように協調性が求められる社会が急激に変わり始めていると書いた。

 

そうは言っても長い歴史の中で培われてきた上下関係はそう簡単に変わることはなく、異なる意見には否定的な印象がまとわりつきやすい。

 

自分の考えや意見を否定されるとあたかも全人格を否定されるように感じてしまうから。

 

それは異なる意見や考え方、価値観に慣れていないだけで、今日はそれに慣れるための一つの方法論としてディベートを紹介したい。

 

と言っても、ディベートのルールやテクニック、勝つための方策を伝授しようというような小難しい話ではない。

 

ディベートの本質は、ある話題について賛成派と反対派に分かれて議論し、より良い解決策を探ること。

 

全ての物事には両面があり、見方受け方使い方によって良くも悪くもなる。それを言葉を使って表現し、理解を求め、より良い方向へ持っていく。

 

競技の側面もあるけれど、我々日本人が取り入れたいのは、考え方や価値観を言葉で表すこと、そして相手の立場に立って考える癖をつけること。

 

ディベートでは賛成派と反対派に分かれるけれど、必ず交互に両派に立つことが要求される。賛成派だけでなく、反対派としての意見も考え、主張しなければならない。

 

それが感情的になりやすい我々日本人が冷静さを保つ方法の一つになるのではないか。

 

例えば、「原発は廃止すべき」というお題があったとして、

 

賛成派は、東日本大震災による福島原発放射線漏れの恐ろしさを知っているから同情論、経済論を持ち出しやすい。説得力もある。

 

しかし、世界は今だ原子力発電所を止めようとしてはいない。ということは、反対派、つまり原子力発電の継続使用、新たな建設を望んでいる人たちも存在するということ。

 

題目に反対する意見を自ら考え、論理を構成し、自分の言葉で表すことで公平で論理的な考え方が身につくのではないか。

 

また、自分の本来の意見と異なる立場に立ち、主張する習慣をつけることで意見を意見として捉えることができるようになる。たとえ実生活で反対意見を述べられてもあくまで意見に対しての反対であり、全人格の否定というような大仰な受け取り方をしなくて済むようになる。

 

ディベートを大袈裟に捉えるのではなく、自分の意見を建設的に伝えるための一つの手段として、反対意見を常に考える訓練法として、日々の生活に取り入れてみたい。

 

あくまでゲームとして、知的な遊びとして。

 

ディベートの価値を再認識できそうだ。

 

 

活私奉公

 

自分の意見を求められるととかく口が重たくなるのが日本人。

 

昔から上下関係の厳しい身分制度を生き抜き、現代の先輩後輩関係に変わった今も受け身の授業を受け、先輩や上司に逆らうことは望ましくないという文化の中で育ってきた。

 

自分の意見を持つよりも場の空気を読み、出る杭にならぬよう注意し、周りに協調することが求められてきた。

 

そんな世界では自分の意見を持つことはリスクでしかなく、寄らば大樹の陰、自分の頭で考える、自分の意見を持つことは、異端児のレッテルを貼られる一番の要因でしかなかった。

 

それが処世術であり、暗黙のルール。

 

言わば滅私奉公。

 

それでも時代は急激に変わりつつある。

 

自分を殺して奉公するのではなく、

 

ありのままの自分を活かしつつ

 

世のため人のため尽くしていけばいい。

 

 

 

 

二兎を追う

 

二兎を追う者は一兎をも得ず

 

そんなことわざがある。

 

敢えて言おう。

 

二兎を追わなければ二兎を得ることはない

 

と。

 

二兎を追って一兎も得られないのは方法がまずいだけ。

 

二兎を得られるよう入念に戦略を立て、確実に実行すればいい。

 

二兎が一箇所に集まるようにすればいい。

 

最初から二兎を諦める必要なんてない。

 

 

二月十日にふとそんなことを考えた。

 

 

呪縛の源

 

昨日のブログで「人生の奴隷」に自らなっている危険性と解放のためのヒントを考えた。

 

忙しさややりがいのような一見「人生の意義」に思えるようなことも時に自らが真に望んでいないことがある。

 

それらに縛られて奴隷のような生活を送っている時が。

 

それでも立ち止まって深く考えてみると、

 

自分を縛っているのは仕事でも家族でも世の中の常識でも他人の目でもなく、自分自身なのだと気づく。

 

本当は自由なのに自分自身で勝手にそれらしい理由をつけて自らを縛り上げている。

 

呪縛の源は他でもない自分自身なのだ。

 

真の自由への鍵もまた自分が握っていることを忘れてはならない。

 

 

人生の奴隷

 

目の前にあることに必死になるのは決して悪いことではない。

 

目の前の勉強、バイト、部活、遊びに仕事にデートに家事に追われててんてこ舞いになる。

 

それが生活であり、人生の醍醐味。

 

それでも時には立ち止まって考えてみることも忘れてはいけない。

 

俺は何をしてるのだろう?

私はなぜここにいるのだろう?

僕はなぜこれをしているのだろう?

 

そう自らに問うてみる。

 

自分が納得する答えが浮かぶのなら何の問題もない。

 

頭の中に、心の中に、もやもやが浮かんで何もわからないようなら全てをリセットするのも一案だ。

 

日々の生活を生きるだけ、

 

するべきこと、しなきゃいけないことだけに追われだけならそれは奴隷と一緒。

 

「人生の奴隷」

 

そう言ってもいいかもしれない。

 

自ら奴隷になるなんてナンセンス。

 

でも、

 

自ら奴隷になるのなら自ら奴隷解放もできるはず。

 

その第一歩は自問することから始まる。

 

自分GO

 

ポケモンGOが世界を席捲してからまだ半年ほどしか経っていないけれど、めっきりプレイヤーが減っている。

 

それでもよく目を凝らしてみるとところどころでプレイヤーは生き残っていて(?)、驚くほどシニアが多い。そんな印象がある。

 

今日はそんなシニア層を開拓したポケモンGO、スマホゲームの発展系、別案をしばし考えてみたい。

 

ターゲットはシニア層。

 

彼らは時間もあり、お金も持っている。健康意識も高く、普段からの体力維持のための散歩も長距離移動(旅行)も大好物。

 

切り口は2つ。

 

普段使いは万歩計をより発展させたもの。2つ目は歴史好きが全国を回るタイプ。

 

普段使いの万歩計はただ単に歩数やキロ数を表示させるだけではつまらない。ポケモンGOのように近所、どこを歩いてもVRの中でポイントやアイテムをゲットできたり、誰かと戦って陣地を取ったり、成長していく工夫をあちらこちらに散りばめる。特に近所でもそのエリアを歩き回ることで知らない地域の歴史を学べたり、気づきを得られたりしたらやる気が高まりそう。

 

全国を回るタイプはテーマ毎に分けたら面白い。

 

例えば、

 

戦国時代編、江戸時代(参勤交代)編、幕末編でそれぞれの名所旧跡に行ってスタンプを集めたり、歴史上の偉人たちのエピソードやトリビアを学んでポイントゲットしたり、他者と比べて自分がどれだけ強いかがわかったり。それぞれの史跡の歴史や裏話のクイズを設けて、知識が定着したらポイントアップもいいかもしれない。

 

他にも、

 

お城めぐり編、温泉めぐり編、名山登頂編も面白そうだし、

 

都道府県めぐり、県庁所在地めぐり、マンホールコレクションもいいかもしれない。

 

いずれも地図上でどれほど多くの場所を訪問したか、どれだけの距離を移動したか、どれほど多くの学びを得たか、が可視化されることでモチベーションが湧くし、継続へのドライブがかかるはず。

 

ゲームをすることで健康促進になり、楽しみが増え、街に活気が生まれ、より多くの人たちが全国を回り、旅行観光業も栄えるような、そのことでより日本が好きになるような、

 

自分がGOするような、

 

そんなゲームを誰か開発してくれないだろうか。

 

さもなければ、

 

自分GOするしかない!