ディベートの価値

 

自分の意見を求められるととかく口が重たくなるのが日本人。

 

そんな風に書き始めた昨日のブログ「活私奉公」では、自分の意見を持つよりも周りの空気を読んだり、長い物には巻かれろのように協調性が求められる社会が急激に変わり始めていると書いた。

 

そうは言っても長い歴史の中で培われてきた上下関係はそう簡単に変わることはなく、異なる意見には否定的な印象がまとわりつきやすい。

 

自分の考えや意見を否定されるとあたかも全人格を否定されるように感じてしまうから。

 

それは異なる意見や考え方、価値観に慣れていないだけで、今日はそれに慣れるための一つの方法論としてディベートを紹介したい。

 

と言っても、ディベートのルールやテクニック、勝つための方策を伝授しようというような小難しい話ではない。

 

ディベートの本質は、ある話題について賛成派と反対派に分かれて議論し、より良い解決策を探ること。

 

全ての物事には両面があり、見方受け方使い方によって良くも悪くもなる。それを言葉を使って表現し、理解を求め、より良い方向へ持っていく。

 

競技の側面もあるけれど、我々日本人が取り入れたいのは、考え方や価値観を言葉で表すこと、そして相手の立場に立って考える癖をつけること。

 

ディベートでは賛成派と反対派に分かれるけれど、必ず交互に両派に立つことが要求される。賛成派だけでなく、反対派としての意見も考え、主張しなければならない。

 

それが感情的になりやすい我々日本人が冷静さを保つ方法の一つになるのではないか。

 

例えば、「原発は廃止すべき」というお題があったとして、

 

賛成派は、東日本大震災による福島原発放射線漏れの恐ろしさを知っているから同情論、経済論を持ち出しやすい。説得力もある。

 

しかし、世界は今だ原子力発電所を止めようとしてはいない。ということは、反対派、つまり原子力発電の継続使用、新たな建設を望んでいる人たちも存在するということ。

 

題目に反対する意見を自ら考え、論理を構成し、自分の言葉で表すことで公平で論理的な考え方が身につくのではないか。

 

また、自分の本来の意見と異なる立場に立ち、主張する習慣をつけることで意見を意見として捉えることができるようになる。たとえ実生活で反対意見を述べられてもあくまで意見に対しての反対であり、全人格の否定というような大仰な受け取り方をしなくて済むようになる。

 

ディベートを大袈裟に捉えるのではなく、自分の意見を建設的に伝えるための一つの手段として、反対意見を常に考える訓練法として、日々の生活に取り入れてみたい。

 

あくまでゲームとして、知的な遊びとして。

 

ディベートの価値を再認識できそうだ。