ゲームとしての逆張り

 

大事なことは続けること(高原と踊り場の共通点)、ビッグデータを構成するスモールデータ(=個人の情報)の扱い方には気をつける(スモールデータの扱い方)、自分が「司る者」なのだという認識を持つ(司る者)・・・

 

この3日間のブログの結論である。

 

ある意味、当たり前であり、「正論」。

 

「悪くはない」と思う一方で、天邪鬼な心が「おもしろくない」とささやく。

 

それも正直な感想だ。

 

だからこそ「逆張り」の誘惑に引かれてしまう。

 

正論、当たり前のこと、を否定したり、正反対のことを言ってみたい衝動に駆られてしまう。

 

「戦争はいけない」と唱えることが大事(「戦争はいけない」という呪文)とか、いっぱいいっぱいになることで成長できる(いっぱいいっぱいの先)とか、生活の質は経済全体が活性化されなければ無理とか(QOL)、求めたり、願ったりして手に入るのなら誰も苦労はしない(求めよ、されば与えられん)とか、言いたくなる。

 

 

言えばいい。

 

 

「ゲーム」として、

 

 

自分の信念と正反対のことを口にすることで、その視点からモノが見えるようになる。正反対の立場から考えることができる。

 

 

まさにディベートだ。

 

 

「ゲームとしての逆張り」に愉しんで取り組んでいきたい。



いや、いかなくてもいい・・・