ある人からこんな話を聞いた。
日本の古代史を語りたいというわけではなく、世の中のことを分類する一つの方法として「見えるもの」「見えないもの」という視点が面白いと思った。
もともと日本人は見えないものの存在、価値について敏感だった。
国土の三分の一以上が森に覆われ、四方を海で囲まれ、湿度が高く、四季に富み、自然の力を巧みに利用し、時には翻弄され、命をつなぎ、独自の文化と価値観を育んできた。
世の中が「見えるもの」と「見えないもの」で成り立っているという考えはいたって自然な流れだったと言える。
にも拘らず、今回改めて「面白い」と思ったのは現代社会の、西欧文明に基づくモノの見方や価値観に知らず識らずのうちに侵食されていたからだと感じた。
目に見える世界、手で触れられる物質社会を司っているのが現在の日本政府とするならば、見えないもの、手で触れられないものを司る存在は何なのだろう。
二千年の時を超え、今も出雲大社かもしれないし、
いつの頃からかはわからないけれど、権限移譲され、今は個人個人に委ねられている、というのが個人的な意見だ。
一人ひとりの心の中に、見えないもの、手に触れられないものを司る力があると。
それに気づく人もいれば気づかない人もいる。
まずは自分が「司る者」なのだという認識を持つことで無力感から脱せられるのではないか、
そんな気がした。