しょうがある

一昨日、昨日と普段よく使う表現の「ある版」についてその使い方と語源を調べてみた。
だらしある
http://d.hatena.ne.jp/norio373/20121120
とんでもある
http://d.hatena.ne.jp/norio373/20121121



今日もその続きで、



「しょうがない」にスポットライトを当ててしばし考えてみたい。



「しょうがない」は本来「仕様がない」と書く。読んで字のごとく「しようがない」であり、「する方法がない」「する手段もない」を意味する。方法も手段もなく、どうしようもないことからいつしか諦めのニュアンスを持つようになった。



「しょうがない」という言葉を発し、諦めることで思考が停まる。



このブログでは、何度も閉塞感に覆われたこの国の体たらくの原因が「日本人の思考停止」と断罪してきた。



しかし、



もしかすると「しょうがない」というメンタリティは今に始まったことではなく、長い年月を経て我々の祖先が培ってきた叡智の一つではないか、そんな考えが頭を過った。



農耕民族である我々の祖先は自然の恵みから生きる糧を得て、自然と一体化することで生を繋ぎ、歴史を作ってきた。時には大自然の圧倒的な力に翻弄されても自然と共に生きていくことが我々のアイデンティティと覚悟を決め、時を重ねていくことで、結果として唯一無二の豊かな文明を育むこととなった。



大自然の中で人間の存在などちっぽけなもの。大自然は世界であり、宇宙である。その無限の世界に住んでいる我々人間は宇宙=天の行いにどうこうすることはできず、「しょうがない」と口ずさんで全てを受け入れるしかない。そのことは、恥ずべきことではなく、むしろ誇るべきものなのではないか、そんな思いが次々に流れ出した。



記憶が手繰り寄せられる。



確かに、知り合いの外国人が日本に住んで感嘆することの一つだと語っていた。



自然との共生を。シンプルライフとシンプルマインドを。自然に抗わず、「しょうがない」という諦めの境地で生きていくことを。それが西欧の考え方とは全く正反対であることを。



そして、「諦めの境地」は「負け犬の境地」を意味しない。



それが意味するのは・・・



明日へ続く