3056名の命が一瞬に失われた事実を再確認した。
この場所で。
戦艦大和は熾烈を極めていた沖縄防衛のために呉を出港した後、徳山に立ち寄り片道だけの燃料補給を行い、南下した。当初は沖縄本島に着き次第岸に乗り上げ、砲台の役割を担わせる目的だったという。
その途中で米軍の攻撃に遭い、1945年4月7日坊ノ岬沖にて沈没した。この時、左舷からのみの執拗な攻撃は、同型戦艦武蔵へのそれ以前に行った左右前後からの攻撃では沈没までに長時間かかることを学んでいたからだったという。
この沈没でわかっているだけで3056名もの尊い命が失われた。
ここ大和ミュージアムではその戦死者名簿が県別で記されている。
そして、その横にある「戦艦大和の最期」の著者、吉田満氏、臼淵磐氏の言葉が重かった。