あの天海祐希がテレビのインタビューでこんなことを語っていた。
社会に天海祐希の名前が出始めるようになってから不思議な感覚をおぼえるようになった。
自分の本名と本体があるのに、あたかも天海祐希というもう一つの名前と存在があって、少しずつ自分が天海祐希を演じなければならなくなり、いつしかその存在の方が本当の自分であるかのような感覚になったという。
名俳優である高倉健のエピソードを思い出す。
彼もまた「私」というものを放棄し、1日24時間、1年365日高倉健を演じなければならなかったというあの伝説である。
そんな話を聞くとさぞ大変だろうし、辛いだろうとしか思うけれど、改めて考えてみると、人は誰もが社会の中で何らかの役割を演じていて、その役へのこだわりや思い入れが深ければ深いほど、また、公演期間が長くなればなるほど、役と自分の区別がつかなくなっていくもの。
そんな気がしてきた。
そして、
多くの場合、
それは本来の自分の喪失ではなく、
成長であり、
進化
そう言えるのではないか。
「もう一つの名前」をもっと誇りたい。