すり替わる世界

 

IoT,  Internet of Things,  

 

モノのインターネット化と訳されるこのバズワードは少しずつ、いや物凄いスピードで、静かに我々の生活に潜り込み始めている。

 

間も無く気がつくと全く新しい世界が広がっているということになるだろう。

 

家の照明やエアコンや冷蔵庫がインターネットに繋がって、家に居なくても電気をつけたり消したり、家に着く頃に涼しく/暖かくなっていたり、冷蔵庫の中を賢く管理して・・・という話は確かに良いのだろうけれど、正直ピンとこない。

 

想像力の貧困さゆえなのだけれど、そんな風に感じていたところ夢の広がる、具体的でワクワクする、心の熱くなるスタートアップ企業の創業者の話を聞いたので共有したい。

 

赤ちゃんの午睡中の突然死は毎年150件程起こっているという。原因不明とは言え、主にうつ伏せになって寝ている時に起こるらしく、保育園の多くは保育士が赤ちゃんが寝ている間にエクセルで作った簡単な表に数分毎の寝ている向きを矢印を書いて管理し、事故防止に細心の注意を払っているという。

 

これをIoTの力を使って解決しようとしているのがライナフという会社。

 

赤ちゃんの胸のところにボタンのような発信器をつけることでうつ伏せ状態を検知したり、心音を聞き分けて危ない状態になったら保育士に知らせる。

 

これで一人でも多くの赤ちゃんの命を救おうという気持ちに胸が熱くなった。

 

それ以外にもI Tプラットフォームのほとんどを外国企業に握られているという現状をなんとかしたいという想いもあって物流システムをIoTを使って効率化、変革しようとしているHacoboという企業。

 

不動産を愛してやまないとある不動産オーナーが自らの物件管理や効率化を考えて作ったスマートロックはスマートフォンでドアの施錠開閉ができ、しかも安価で取り付けが簡単という優れモノ。ユニファという企業の成果である。

 

日々の暮らしや仕事により広く、より深くインターネットが浸透していく。

 

文字通り全てのモノが繋がりネットワークすることでこれまで生きてきたはずの世界が新しい世界にすり替わっていく。

 

より便利に、より楽しく、より多くの可能性が広がる一方でリスクもまた膨らんでいる。

 

我々自身がそのリスクを常に意識し、もしもの時にはアラートを発する仕組みを持っていなければならない。

 

そこはIoTではなく、アナログで。

 

人間的に。

 

 

解像度を上げる

 

解像度を上げる

 

それを最近意識するようにしている。

 

ぼやっと全体像を掴むことが重要なことは言うまでもないけれど、それだけだと個々の状態が掴めず、全体のトレンドを理解することができない。

 

全体を構成しているのは個々であり、それぞれの状態を分析しないことには何が起こっていて、どんな手を打てばいいかわからない。

 

そのためにも解像度を上げて個々がより見えやすく、クリアにする必要がある。

 

そうすることで全体像もより美しく見えるようになる。

 

テレビなら4Kが当たり前になってきていて、静止画なら16Kまで行くと画面に映し出されているものなのか現実にそこにあるものなのかの区別がつかなくなるらしい。

 

解像度を上げる

 

現象と現実をシンクロさせるためにも取り組みを強化していきたい。

 

人をつくる

 

人をつくる

 

そんな烏滸がましい(おこがましい)ことは自分は言えないし、言うべきでもないと思っていた。

 

一人ひとりの人間は、意思と特徴と自由を持った独立した存在であり、他人からの干渉や指導や命令は受けるべきではないと思い続けていた。

 

それは家族であっても学校でも会社でも社会でも同じ。

 

他方で、家族を、学校を、会社を、社会を構成するのは人であり、その人がどういう人であるかはそのグループや組織のあり方や質を大きく左右する。

 

いや、全てであると言ってもいい。

 

故に「人をつくる」が大事なのだと改めて思うようになった。

 

と言っても、上意下達の軍隊的な命令や雁字搦めの規則で縛るようではいけない。

 

一人ひとりの意思や特長、自由を尊重した上で「人が育つ」「自らが自らを成長させる」「成長したくなる」、そんな「場」にすることが大事。それがそのまま「人をつくる」ことになるのだから。

 

その「場」は、サッカーのピッチであり、フィギュアスケートのリンクであり、武道の道場。

 

職場もその一つと捉えてもいいのではないか。

 

人をつくる

 

それを意識して一言一言を発したい。

 

立ち居振る舞いに細心の注意を払いたい。

 

 

剥き出しの感情

 

立派な大人は何があっても動揺しない。

 

少なくとも動揺を表に出すことはない。

 

現代社会、文明社会においては極力人間関係に波風を立てないことが暗黙のルールになっているから。

 

大人たちは賢そうな顔をして(少なくとも)大勢の中では感情を自分の中に収めている。

 

いつかは心が麻痺して何も感じなくなるまで。

 

それでも家族や身近な人には感情をぶつけやすく、だからこそ喧嘩も起こるし、本音を言い合うことで関係が深まる時もある。

 

昨夜、というか朝方一人で感情を爆発させた。

 

ワクワク感は不安と恐れに変わり、次に喜び、歓喜と続いた。

 

痺れるほどの興奮に身を委ね、妄想と夢が絡み合い、そこに一瞬のエアポケットが生じてしまった。

 

その隙に黒いものが入り込むとあっという間に世界は暗黒に支配された。

 

剥き出しの感情は酸素を失って燃焼を打ち消されたかのように沈黙にすり替えられた。

 

FIFAランキング3位は伊達ではなかったということ。

 

茫然自失という言葉がこれほど似合うシーンは見たことがない。

 

気持ちの整理をつけて、きちんと敗戦の分析をして、また歩き出せばいい。

 

歩き出す。

決戦の日

 

あと数時間でベルギー戦が始まる。

 

決戦の日だ!

 

もし自分がその場にいたらどうだろう?

 

もし自分がスターティングメンバーの一員なら?

 

どんな心持ちで、どんなことを考え、何を目指すのか?  

 

何をしないと決めるのか?

 

単に応援するだけでなく、いつかは来たる自分の「決戦の日」に向けて、心を整えてみたい。

 

 

 

 

後半戦スタート

 

昨夜のフランスVSアルゼンチン戦は凄かった。

 

スコアは4VS3でフランスが勝利を収めたが、大量得点の試合は互いに守りが弱かったせいではなく、見事なまでの攻撃力の賜物だった。

 

前半戦はフランス グリーズマンのPKとアルゼンチン ディマリアの見事なゴールで折り返し、後半戦が主戦場と化した。

 

フランスのパバールのミドルシュートは芸術品と言えるほど。身体を倒しながらボールに回転を加えかつ浮かないように脚を振り下ろすと六角形の模様のついたボールはドリルのように一直線にアルゼンチンゴールに吸い込まれていった。

 

フランス エムバペは弱冠19歳で10番を背負う次世代のサッカー界のエースだ。

 

彼のスピードは文字通り群を抜いていて、しかも技があり、チームメイトを思い遣る気持ちがあり、未来のメッシやロナウドになる逸材。

 

彼の絡む後半の2点はフランスの組織力が遺憾なく力を発揮し、美しいとさえ感じられる得点となった。

 

アルゼンチンの粘りも凄かったが、フランスの若き獅子たちは乗りに乗っていた。

 

FIFAワールドカップ ロシア大会も昨夜から決勝トーナメントに入り、後半戦が始まった。

 

気がつくと今日は7月1日。

 

2018年も後半戦がスタートした。

 

激動の、凄い後半戦に耐えられるよう気合いを入れ直したい。

 

気持ちに余裕を持って、笑顔で、後半戦を楽しもう。

 

 

どのレベルで考えるか

 

サッカーワールドカップの中一次予選最終戦の日本の戦い方が物議を醸している。

 

試合開始前に勝ちか引き分けで予選突破と言われていた試合も格上のポーランドFIFAランキング8位、ちなみに日本は61位)に先制点を奪われ、予選突破が危ういと言われていた時のこと。

 

同グループのもう一試合コロンビアVSセルビア戦でコロンビアがリードし、セルビアと日本が得失点差も同じ、フェアプレイ基準で僅かに日本が優っていることがわかった途端に自陣内でボール回しが始まった。

 

時間稼ぎの常套手段とは言え、負けている局面での安全策にスタジアムからブーイングの嵐が巻き起こった。

 

恐らく夜中にテレビの前で応援していた多くの日本人サポーターも同じ気持ちになったのではないか。

 

案の定、試合後からは非難の声と容認の声の両方がネット上でもテレビからもリアルの場でもかまびすしい議論が引き起こされている。

 

  • 負けている試合で時間稼ぎなんて信じられない
  • フェアプレイポイントでセルビアに勝っても真のフェアプレイとは言えない
  • 一生懸命応援していたのに情けない。子どもたちに見せられない
  • 一次予選突破という目標達成のためにリスクを減らす最善の策だった
  • 予選突破だけでなく、決勝リーグの展開を考えての選手温存は懸命
  • 結果が全ての世界で当然の戦略

 

筆者の意見は「どのレベルで考えるか」で取り方は変わると思っている。

 

確かに見ていて残念だったし、気持ち的には悲しいとさえ感じたし、子どもたちに「打算的」ということを奨励・・・までは行かずとも「容認」するというメッセージを発することになるのではないかという懸念もあった。

 

と同時に、もし潔く攻めてカウンターを食らって失点したり、果敢に攻める中でイエローカードが出て、結果として決勝リーグに上がらなかったとした時のバッシングと残念感は尋常ではなかっただろう。

 

そもそも当事者である日本代表監督と選手たちが決めたことに外野がとやかく言う権利はない。いや、サポーターだから権利はあるのだろうけれど、それは応援する醍醐味の一つにしかならず監督や選手は堂々と自分たちの決定と結果に胸を張ればいい。

 

もしそこに胸を張れない何かがあるのなら別の話だ。

 

そうこうしているうちに監督が謝罪したという。

 

どのレベルで考えるかだけれど、それならあの戦い方はなかったと思わざるを得ない。

 

謝罪はなかった方がいいと思うのは筆者だけであろうか。