死について考える機会があった。
そのきっかけは3人の死。
親父の命日があり、同僚が若くして病に斃れ、世界的な指揮者である小澤征爾氏が天命を全うした。
ユーミンの「ひこうき雲」を聴きながら、以前読んだ本を思い出す。
イェール大学で人気講座となっている「死とは何か」と立花隆の「いつか必ず死ぬのになぜ君は生きるのか」は唯物史観の「死」をドライに見つながらも生きる意味や価値を力強く見出していく。
「生きがいの創造」はいわゆる生きがいと輪廻転生を科学と体験談の両面から経営学者が考察する興味深いシリーズ。
東京大学大学院医学部教授兼臨床医のスピリチュアル側に少し走ったこんな考え方も想像力を掻き立てられる。
圧巻は最先端量子科学に基づく仮説としての「死は存在しない」だ。
そして、随分前から常に心の中に棲み着いているのは村上春樹の名作「ノルウェイの森」の言葉。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している
もう少し詳しく引用してみよう。
生はこちら側にあり、死は向こう側にある。僕はこちら側にいて、向こう側にはいない。
しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死を(そして生を)捉えることはできなくなってしまった。死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的にすでに含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることができるものではないのだ。あの十七歳の五月の夜にキズキを捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたのだからだ。
死は生の対極にあるのではなく、生の一部なのだ。
逆に言えば、死は生の中に存在し、決して失われるものではない。
死を無駄に恐れることはなく、悲しむ必要もない。
死者もまた我々の中で生き続ける。
我々は常に一体なのだから。
日々精一杯生きていけばいい。
一緒に。
親父が逝ったあの日の美しい夕日を思い出す。
ボストン交響楽団の小澤征爾指揮のクラシック音楽を聴きながら歩きながら空を見上げると、
あ、ひこうき雲だ。
https://youtu.be/9HInQDjCCRc?si=m-UUKgaEOe19Hvvc