いい加減にする

 

それなりに混雑している電車に乗っていた時のこと。

 

筆者は立っていて、本を読んでいるといきなり見知らぬおじさんから怒鳴られた。

 

「もういい加減にして下さい!」

 

全く心当たりがなかったので半ば睨みつけるようにおじさんを見据えると、驚愕の事実が判明した。

 

筆者が読んでいるハードカバーの本から垂れ下がった栞(しおり)の紐の先っちょがおじさんのハゲ頭をふらぁ、ふらぁと擦っていたのだ。

 

新快速の座席は昔ながらのボックス型になる可動式で進行方向に向かって座るタイプ。立っている人と座っている人の距離が近いということもあるからなのだけれど、それにしても間が悪かった。

 

それに気づいた瞬間、睨みがちだった目が謝罪の目に変わり、「あ、ごめんなさい。すみませんでした」に変わった。

 

我ながら変わり身の速さに感心したくらい(!?)。

 

たとえ意図的でなかったとしても、おふざけはいい加減にしなければならない。

 

 

芸術作品の定義

 

今日は先日のブログ「無限の世界」の続きの話をしたい。いわばパラレルワールドで分かれたもう一つの話。

 

そこで書いた内容はおよそこんなところ。

 

一人ひとりの人間が絵を描いたり、音楽を奏でたり、物語を創ったりする毎に世界が再構築され、そこには無限の世界が拡がる。それをSFの世界では「パラレルワールド」と呼び、少しずつ異なる世界がこの宇宙のどこかに(並行的に)無限に存在するという。

 

人間が絵を描いたり、音楽を奏でたり、物語を創ったりすることで生まれる世界があることは間違いない。

 

と同時に、多くの人から評価される作品は、"work of art"(芸術作品)と呼ばれ、それ自体が愛され、価値が生まれる。


そこで思ったのは、芸術作品が芸術作品足らしめるものは何なのだろう?ということ。

 

一枚の絵画を見て、それが素晴らしいと感じる人がいれば、全く感じない人もいる。

ある音楽を聴いて、それが素晴らしいと感じる人がいれば、全く感じない人もいる。

一冊の小説を読んで、それが素晴らしいと感じる人がいれば、全く感じない人もいる。

 

多くの人が評価するかどうかが芸術作品としての定義ということなのだろうけれど、なら、多くの人が認める価値=素晴らしさ=芸術とは一体何なのだろう?

 

絵画や音楽、物語という作品が創造される度に新しい世界が構築される。

 

そこに異なる世界が作られるかどうか、その世界観が豊かかどうか、そこにある見えない世界を人々が感じられるかどうか。

 

それが芸術作品として評価され、価値が生まれ、資産や人類の宝とされる基準なのではないだろうか。

 

であるならば、芸術作品は新しい世界へのドアのような役割も担っている。

 

そんな気がした。

 

 

思考の軌跡

 

感じること、思考、一瞬のひらめき、

 

そういったものは、雨が降った後の青空にかかった虹のようにすぐに消えてしまう。

 

それを形に表すために言葉があり、物語があり、絵画があって音楽という芸術という領域がある。(一昨日の「無限の世界」からの続き)

 

感覚、思考、閃きを形あるものに表現することで自他共に認識しやすくなり(言葉で置き換える不完全さは別にして)、再現性も確実に高まる。

 

その中でも思考の軌跡を残すためには言葉が最も有効。

 

地球の長い歴史の中で他の動物たちと比べて人間が身体的な劣位を乗り越え、生き残り、進化を続けてこれたのは知性のおかげであり、その知性は言葉に育まれたと言っても過言ではない。

 

話が少し大きくなり過ぎたけれど、身近なところを見回しても仕事上のメモやノート、日記やブログもそうした役割があることは間違いない。

 

「思考の軌跡」を残すことで、学びは深まり、再現される回数が増え、より効率的に知恵が獲得される。

 

拙いながらもこのブログを継続できている要因の一つと言っていい。

 

自分はもちろんのこと、誰かの何かの役に立つことも少しはあるだろう。

 

これからも「思考の軌跡」を残していきたい。

 

 

どこか遠くで

 

今日は小学校4年生の娘のピアノの発表会。

 

娘の選んだソロ曲は"Somewhere out there"。アンブリンの「アメリカ物語」の主題歌でアンサンブルは「上を向いて歩こう」(エレクトーン)。

 

この4ヶ月間練習してきた成果を発揮する日だ。

 

その分緊張もするし、失敗もするだろうから直前にこんなメッセージを娘に送った。

 

◯◯たんへ

きんちょうすると思うし、たくさん気にすることはあるかもしないけど、あれもこれもはできないから一つのことに集中すればいい。

それは「感情をこめること」。

それだけでいいよ。

間違ったっていいし、止まってもいい。

感情こめて演奏する◯◯たんを楽しみにしてるよ。

ママもパパもお兄ちゃんもおばあちゃんもククココもみんなでおうえんしてる!

楽しんできーな!

 

その結果は・・・

 

大成功!

 

昨日親戚の集まる場で弾いた時より圧倒的に上手かったし、何より感情いっぱいの演奏で自分でも97.5点をつけるほど納得のいくパフォーマンスだった。

 

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「どこか遠くで」がすぐそこになり、気がついたら乗り越えていたって感じ。

 

発表会は緊張するし、できればない方が嬉しいけれど、

 

それを乗り越えることで新しい世界が広がることも事実。

 

彼女のここからの成長がまた楽しみである。

 

次は誰の番だろう。

 

 

www.youtube.com

無限の世界

 

パラレルワールドなる言葉を初めて聞いたのは藤子不二雄の短編小説だったか。

 

昨日のブログで、一人ひとりの人間が絵を描いたり、音楽を奏でたり、物語を創ったりする毎に世界が再構築され、そこには無限の世界が拡がると書いた。(世界を再構築する)

 

厳密に言えば「再構築」ではなく、「新たに創る」。

 

それは今ある世界とは異なる別の世界が次々にできていくということ。

 

SFの世界ではそれを「パラレルワールド」と呼び、少しずつ異なる選択肢を選んだ世界がこの宇宙のどこかに(並行的に)無限に存在するという。

 

それはとどのつまり我々は無限の世界(可能性)を生きていることになる。

 

大事なのは迷子にならないこと。

 

そのためにはヘンゼルとグレーテルのように来た道を辿れるように印をつけておかなければならない。

 

あ、彼等の残したパンくずは誰かに食べられてしまって後戻りはできないんだった・・・

 

思考の軌跡も辿れなくなってしまった・・・

 

 

 

世界を再構築する

 

言葉で表すことは世界を再構築することだと感じる。

 

大袈裟ではなく、物事を表すために言葉を使う瞬間、実際とは別の場所で別の解釈がなされる対象が生まれるから。

 

テーブルの上にある実物のリンゴを誰かに伝えるためにリンゴと言った瞬間、それを聞いた人はまた別のリンゴを想像する。

 

そういう意味では絵を描くのも音楽を奏でるのも物語を創るのも新しい世界を構築する行為と言える。

 

「すべての物は二度作られる」

 

とは、20世紀のビジネス書最大のベストセラーの一冊である「7つの習慣」からの言葉である。

 

http://www.franklinplanner.co.jp/learning/selfstudy/ss-13.html

 

一人の人間が一瞬のうちに世界を再構築し、それを繰り返す姿を想像してみる。

 

そこには無限の世界が存在する。

 

自分の可能性をもっと信じてみてもいいのではないか。

 

そんな気がしてきた。

描写のトレーニング

 

テレビをつけるとグルメに関する企画、番組が溢れかえっている。

 

そこでは「食レポ」と呼ばれる食べ物をいただいた時の感想が語られ、その良し悪しが企画や番組の成否を左右する。

 

料理の見た目、匂い、口に入れた時の第一印象、テクスチャー(食感)、そして味(後味も含めて)をリアルに、視聴者が食べたいと切望するように魅力的に伝えることが求められる。

 

そこでは「言葉にする力」が重要な要素を持っていて、「描写のトレーニング」をしているかどうかで大きな差が開いてしまう。

 

こうした料理の評価以外にも「描写のトレーニング」には、身の回りにあるモノ、風景、人の身なり、街並み等、目に入るものは全てが対象になるし、目には見えないけれど感じられるもの(その場や人の雰囲気、人物像等)、予期できること、想像の産物だって表現することは可能だ。

 

自らの言葉で世界を再構築する。

 

それが「描写のトレーニング」の本質。

 

この話題のきっかけとなった「魔法がかかった言葉」で触れた村上春樹の新作「騎士団長殺し」の一節を紹介したい。(これもまた筋書きや物語のネタバレになるような箇所ではないのでご安心下さい)

 

インフィニティのテールランプが礼儀正しく、しずしずと夕闇の中に去っていって、あとには私ひとりが残された。今こうして正面から目にしている家屋は、私が予想していたよりずっとこぢんまりとして控えめに見えた。谷の向かい側から眺めていると、それはずいぶん威圧的で派手はでしい建築物に見えたのだが。たぶん見る角度によって印象が違ってくるのだろう。門の部分が山の一番高いところにあり、それから斜面を下るように、土地の傾斜角度をうまく利用して家が建てられた。

玄関の前には神社の狛犬のような古い石像が、左右対になって据えられていた。台座もついている。あるいは本物の狛犬をどこかから運んできたのかもしれない。玄関の前にもツツジの植え込みがあった。きっと、五月には、このあたり鮮やかな色合いのツツジの花でいっぱいになるのだろう。

 

目に見えるモノや風景はもちろんのこと、示唆や暗示という別次元の世界までも見事に描かれている。

 

更に未来までもが(あくまで季節という周期的かつ経験則からではあるが)。

 

さあ、我々もトレーニングを始めようではないか。

 

そう言えば、「言葉にできるは武器になる」という本がちょうど今ベストセラーになっている。

 

それも読んでみたい。

 

 

「言葉にできる」は武器になる。

「言葉にできる」は武器になる。