我々は「完璧な人格」を求め過ぎなのではないか。
ふと、そんなことを考えた。
この世に「才能」というものがあるのだとしたら、個人の役割は持っている「才能」を発揮させること。そして、その「才能」を発揮させる環境を整えることが社会の責任だという気がする。
モーツァルトやニュートン、アインシュタインのように人類の歴史に影響を及ぼすような「才能」から時代を象徴するビルゲイツやスティーブジョブズ、日本では孫正義やイチローのように、才能を持っている人間が不断の努力で結果を出し続けることは美しく、個人の名声だけに留まらず社会や歴史にまで影響を及ぼすことになる。
大事なことは彼らの「才能」を「社会に還元すること」で、それ以外の人間性や性癖、交流関係は関係ないと言ってもいい。
もちろん、彼らの存在自体が「才能」を超えて社会に害を及ぼすことになれば話は別だ。しかし、日本社会特有の「完璧主義」の傾向が個人にも向けられ、成功をやっかむ気持ちも手伝い、その結果「才能」を持つ者を排除し、社会全体が損失を被ることになってしまっては元も子もない。
この状況は決して健全な社会とは言えず、マイナス部分のみが注目される窮屈な社会と呼ばざるを得ないのではないか。実際、ヨーロッパでは政治家が少々のスキャンダルを起こすことは容認されていると聞くし(イタリアのベルルスコーニ首相は他に類を見ないほどのスキャンダルまみれの政治家だが、それでも首相を続けている)、それは個人がどのような才能を持ち、どのようにその才能を組織や社会で活かすことができるのかということが重要視される「成熟した社会」と言えるような気がする。(モーツァルトが多少変人であったとしても彼が作り出した音楽は人類の貴重な財産の一つであることには変わりはない)
繰り返すが、個人の「才能」を超えて個人の「存在」が社会に害を及ぼすことになるのは問題である。しかし、社会全体から見た時に個人の「才能」を個人の「存在」と分けて認め、尊重するという価値観を我々日本人もそろそろ真剣に考え始めるべき時ではないか。
「完璧な人格」を持った人間なんて存在しないのだから。
島田紳介の突然の芸能界引退の余波は広がり続けている。