「高村光太郎全集 第十九巻」 筑摩書房 より
『道程』
どこかに通じている大道を僕は歩いているのじゃない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
道は僕のふみしだいて来た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立っている
何という曲がりくねり
迷い まよった道だろう
自堕落に消え 滅びかけたあの道
絶望に閉じ込められたあの道
幼い苦悩に もみつぶされたあの道
ふり返ってみると
自分の道は 戦慄に値する
支離滅裂な
また むざんなこの光景を見て
誰がこれを
生命の道と信ずるだろう
それだのに
やっぱり これが生命に導く道だった
そして僕は ここまで来てしまった
このさんたんたる自分の道を見て
僕は 自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ
あのやくざに見えた道の中から
生命の意味を はっきりと見せてくれたのは自然だ
僕をひき廻しては 目をはじき
もう此処と思うところで
さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
これこそ厳格な父の愛だ
子供になり切ったありがたさを 僕はしみじみと思った
どんな時にも 自然の手を離さなかった僕は
とうとう自分をつかまえたのだ
丁度そのとき 事態は一変した
にわかに眼前にあるものは 光を放射し
空も地面も 沸く様に動き出した
そのまに
自然は微笑をのこして 僕の手から
永遠の地平線へ姿をかくした
そしてその気魄が 宇宙に充ちみちた
驚いている僕の魂は
いきなり「歩け」という声につらぬかれた
僕は 武者ぶるいをした
僕は 子供の使命を全身に感じた
子供の使命!
僕の肩は重くなった
そして 僕はもう たよる手が無くなった
無意識に たよっていた手が無くなった
ただ この宇宙に充ちている父を信じて
自分の全身をなげうつのだ
僕は はじめ一歩も歩けない事を経験した
かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た
僕は 心を集めて父の胸にふれた
すると
僕の足は ひとりでに動き出した
不思議に僕は ある自憑の境を得た
僕は どう行こうとも思わない
どの道をとろうとも思わない
僕の前には広漠とした 岩疊な一面の風景がひろがっている
その間に花が咲き 水が流れている
石があり 絶壁がある
それがみないきいきとしている
僕はただ あの不思議な自憑の督促のままに歩いてゆく
しかし 四方は気味の悪いほど静かだ
恐ろしい世界の果てへ 行ってしまうのかと思うときもある
寂しさは つんぼのように苦しいものだ
僕は その時また父にいのる
父はその風景の間に わずかながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を 僕に見せてくれる
同属を喜ぶ人間の性に 僕はふるえ立つ
声をあげて祝福を伝える
そして あの永遠の地平線を前にして 胸のすくほど深い呼吸をするのだ
僕の眼が開けるに従って
四方の風景は その部分を明らかに僕に示す
生育のいい草の陰に 小さい人間のうじゃうじゃ はいまわって居るのもみえる
彼等も僕も
大きな人類というものの一部分だ
しかし人類は 無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
人間は 鮭の卵だ
千萬人の中で百人も残れば
人類は永遠に絶えやしない
棄て腐らすのを見越して
自然は人類のため 人間を沢山つくるのだ
腐るものは腐れ
自然に背いたものは みな腐る
僕はいまのところ 彼等にかまっていられない
もっと この風景に養われ 育まれて
自分を自分らしく 伸ばさねばならぬ
子供は 父のいつくしみに報いた気を 燃やしているのだ
ああ
人類の道程は遠い
そしてその大道はない
自然の子供等が 全身の力で拓いて行かねばならないのだ
歩け、歩け
どんなものが出てきても 乗り越して歩け
この光り輝やく風景の中に 踏み込んでゆけ
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、父よ
僕を一人立ちさせた父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため