凄い本を読み終えた。
日本でのキリスト教伝播が九州地方を中心にどのように行われたのか、信長と秀吉のクリスチャンの待遇の違いや大航海時代における主要国の動向とイエズス会の置かれた状況と狙い、そしてその渦に巻き込まれた四人の少年たち(クアトロ・ラガッツィ)について書かれた大著がこれ。
膨大な資料の読み込みによって露わにされた筆者の鳥瞰と虫瞰、当時の信者たちの描写は時に生々しく、教科書では表現し切れない当時の過酷な現実を赤裸々に見せつける。
本の後半ではその俯瞰とクローズアップが絶妙な示唆を提示する。
下巻 100, 101ページ
確かに、彼らが見聞きした西洋の社会、法と正義、民主の歴史は戦国末期の日本社会で生きた結果を生み出さなかった。しかし、それは彼らが傑出していなかったからだろうか?彼らが傀儡だったからだろうか?いったいだれが封建制の上に立つ絶対権力を組織化していくさなかの日本で、法と正義と平和の主張をなしえただろうか?心に抱く信仰さえもが死によって抹殺されるような社会にあって、いったいどのように「傑出した」人間が法と正義を主張できたであろうか?
少年たちが見たもの、聞いたもの、望んだものを押し殺したのは当時の日本である。世界に扉を閉ざし、世界を見てきた彼らの目を暗黒の目隠しで閉ざしたのは当時の日本である。
それでも、彼らは、自分たちの信じることを貫いて生き、かつ死んだ。このあとの章で我々はその壮絶な後半生を見るであろう。
下巻 311ページ
人間の価値は、社会において、歴史において、名前を残す「傑出した」人間になることではない。それぞれが自己の信念に生きることで・これはフロイスが書いているのだが、 半三郎は、受刑者の中に十二歳の子供がいたので助けたいと思って「そなたの命はわたしの手中にある。もしわたし仕える気があればそなたを助けよう」と言った。少年はバウチスタの言うようにすると答えた。ところが、バウチスタはもしキリスト教徒でいていいのなら、そうすると答えなさいと言った。半三郎はそうではない。キリシタンの教えを捨てるならばよい」と言ったので、少年は「そのような条件であるならば、生命を望みません。つかのまの生命と永遠の生命を交換するのは意味のないことです」と言ったそうだ。こうして十二歳の少年が処刑を逃れるチャンスは消えてしまった。
下巻 449, 450ページ
しかし、少年たちが日本に帰ってきたときに、時代は戦国時代から統一的な国家権力のもとに集中され、他の文明や宗教を排除する鎖国体制に向かっていた。そのために彼らの運命はこの大きな時代の流れの中で悲劇的なものになった。ある人びとは彼らの事業は無益だったという。しかし、四人の悲劇はすなわち日本人の悲劇であった。日本は世界に背を向けて国を閉鎖し、個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由を戦いといった西欧近代世界に致命的な遅れをとったからである。ジュリアンを閉じ込めた死の穴は、信条の自由の棺であった。
しかし、私が書いたのは、権力やその興亡の歴史ではない。私が書いたのは歴史を動かしていく巨大な力と、これに巻き込まれたり、これと戦ったりした個人である。この中には、信長も秀吉もフェリペ2世もトスカーナ大公も、グレゴリオ十三世もシスト五世も登場するが、みな四人の少年と同じ人間として登場する。彼らが人間としてすがたを見せてくるまで執拗に記録を読んだのである。時代の流れを握った者だけが歴史を作るのではない。権力を握ったものだけが偉大なのではない。ここには権力にさからい、これと戦った無名の人びとがおおぜい出てくる。これらの少年たちは、みずから強い意志を持ってそれぞれの人生をまっとうした。したがって彼らはその人生においてヒーローだ。そしてもし無命の無数の人々がたちがみなヒーローでなかったら、歴史をたどることになんの意味があるだろうか。なぜなら、わたしたちの多くはその無名のひとりなのだから。
二〇〇三年九月十三日
時代と場所が変わっても、この社会が、世界が、無名のヒーローたちで支えられていることを決して忘れてはならない。