不識塾 課題図書 -善の研究-

 

経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。中略   意識現象であっても、他人の意識は自己に経験ができず、自己の意識であっても、過去についての想起、現前であっても、これを判断した時は已に純粋の経験ではない。真の純粋経験は何らの意味もない、事実其儘の現在意識あるのみである。

 

 

今年の月一企画、不識塾の課題図書の一冊「善の研究」の冒頭部分である。 

 

善の研究
 

 

 

この文章の後「純粋経験」はどれほど複雑に見えてもシンプルなものであるが現在の意識と統一されていること、それ以外の意識と関係する場合には「意味」となると書かれてある。

 

意味だとか判断だとか夢と知覚の混同や「即ちこれを大なる意識系統の中に統一する統一作用に基づくのである」のような理解困難な文章が多い。(私の理解力が足りないだけだけど)

 

流すように読むと1ページを読み終わっても何が書いてあるのかちんぷんかんぷん。じっくり味わって読んで初めて2、3割が理解できるといったところか。

 

今年の月一企画で初めて1冊読み切らずにブログを書くことになった。

 

タイトルの「善の研究」の理解どころか最初の2章でギブアップ。それ故この1冊を選ぶことに躊躇いがなかったわけではないけれど、ここ数日書いてきたこと、感じてきたことが述べられているのは感じ取れたのでGOサインを出すことに。

 

その判断、その意味は「純粋経験」に基づいている・・・

 

そんな風に西田哲学を理解して言ってみたい。

 

追伸 

まるで外国語を読んでいるような感覚、歯が立たない文章と格闘する貴重な経験を久々にした。

 

またいつの日か再チャレンジしたい。

 


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