飛行の着想

讃岐うどん三昧を楽しんだ後、通りかかった道の駅の隣に「二宮忠八飛行館」なるものを発見した。
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そこで初めてライト兄弟に先駆けて日本人が世界で初めて「飛行の着想」を得て、エンジン付きの「飛行器」の開発に尽力していたことを知った。



以下はパンフレットからの抜粋である。



明治20年(1887)、忠八は21歳で徴兵検査に合格し、陸軍看護卒として丸亀歩兵第12連帯に入隊した。その2年後、野外演習の帰り道のこと、仲多度郡十郷村(まんのう町)もみの木峠で昼食をとっている時、ふと霧の中から残飯を求めて滑空してくるカラスに注目する。カラスは翼を広げ、羽ばたくことなく滑るように舞い降りてくる。
飛び立つ時には何度か大きく羽をあおって、すぐに谷底からの上昇気流に乗って舞い上がっていく。その様子を見ながら忠八は、向かってくる風を翼で受け止め、その空気抵抗を利用すれば、翼を羽ばたくなくても空を飛ぶことができるのではないか、と考えた。
その日から忠八は空を飛ぶことの研究に没頭。休みのために研究を重ね、ついに1年後「カラス型模型飛行機」を完成させた。以上



その後、日清戦争に従軍した忠八は上司に何度も飛行器の開発を上申するも却下される。退役後、独力で飛行器開発に取り組むが1903年ライト兄弟が人類で初めて有人動力飛行に成功し、先を越されてしまう。飛行原理は忠八と同じものだった。飛行機を作る資力さえあれば、あの時軍が試作を許可してくれていたら・・・ 悔やみに悔やみ切れなかった忠八は飛行機の試作を止めてしまう。数年が経ち、ひょんなことからかつての上申書が陸軍航空本部に認められ、日本航空史が発展していくことになる。



忠八は1936年(昭和11年)70歳の人生を終えるが、1964年(昭和39年)には英国王室航空協会にライト兄弟よりも早く飛行原理を発見した男として認められた。



空を飛ぶことを夢見たのは忠八が最初ではなく、恐らく有史以前からの人類の夢。科学技術が進むにつれ夢を単なる空想で終わらせないように時代の先駆者たちがこれまでにも様々な形で挑戦を続けてきた。1490年頃にはレオナルド・ダ・ヴィンチがヘリコプターやハングライダーの原型を設計、試作。1783年にはフランスのモンゴルフィエ兄弟が熱気球による有人飛行に初めて成功し、その後も水素気球、ゴム動力によるプロペラ機の飛行など、進化を続けてきた。



それでも動力付きの有人飛行という現代の飛行機の原型になる原理の着想の価値は決して小さくはない。



着想だけでなく、実際に実現化しようとする行動力も素晴らしかったものの軍の保守主義に結果的に敗退してしまったことは日本人として大きな悔いが残る。ライト兄弟のことは誰もが知っていても二宮忠八のことを知る者はほとんどいない。功労の問題ではなく、新しいもの、未来を変える可能性を受け入れる柔軟な考え方、社会体制の欠如が大問題だと改めて指摘したい。



iPodiPhoneiPadが日本初にならなかった理由も全く同じ。



これからもどうすれば我々日本人の豊かな発想とそれを実現化する技術力を組織として認め、バックアップしていく体制を作っていくのか、それを社会全体の課題として考えていく必要をますます強く感じる機会となった。



飛行館のすぐ近くには後年神主になった忠八が建立した飛行神社が今も立派に存在し、飛行事故で亡くなった人達の供養をしているという。



その想いに応えるためにも。