欲しい
欲しい
欲しい
その欲望は恥ずべきもので口にすることはおろか、心の中にも持つべきものではないと思ってきた。
裕福とは呼び難い家庭で育ったからなのか、「欲しがりません勝つまでは」という時代の空気が微かながら残っていたからなのか、或いは、ただ単に、物欲をあまり感じない方だったからなのかもしれない。
いずれにせよ、「欲しい」という気持ちが否定され敬遠され続けてきたことに変わりはない。
それは我が家という一家庭だけに留まらず、日本の家庭、日本人全体にも凡そ当て嵌まると言っていい。
日本人の美徳に「欲すること」は含まれておらず、個に由来する「欲すること」は、全体を優先するこの国において抑圧されざるを得なかったから。
それが急速に崩壊しつつある。
と言っても、物欲や食欲、性欲の奴隷になりつつあるという話ではない。(数百年後の人達から見れば飽食の時代に映ることは間違いなさそうだけど。それはまた別の話題だ。)
何かをしたいという欲求は解放されるべきではないかということ。また、認知され許容され始めたということ。
もちろん周囲に迷惑をかけたり、自己を結果的に貶めたり破壊してしまったりするような欲望の放出は問題外。自らの奥底から湧き上がってくる、魂の解放とも呼ぶべき健全な欲求であれば、逆にそれらの解放がなければ、個人にとっても、社会にとっても大きな損失になるということ。
自分は何をしたいのか。
今の環境、状況下で何をしたいのか。
仕事において何を、どのようにしたいのか。
我々日本人の多くが心の中に芽生えては押し潰してきた、踏みつけてきた想いのたけを解放すべき時がようやく来た。
それが閉塞感で覆われたこの国を解放し、活気溢れる人々を増やしていく唯一の方法なのだから。
「欲する力」を解放する時が来た。