昨日のブログの最後に「進化のトレードオフ」という言葉を使った。(空で待つ)
もともと「トレードオフ」という観念は日本人にはなじみが薄い。
何かを得るために何かを失うというシンプルな概念にも拘わらず、なぜか理解されがたい。(今回の衆議院解散総選挙がいい例かもしれない。景気回復も欲しいし、財政再建も欲しい。かと言って血の出る改革は避けたい・・・そんなトレードオフの観念のない国民の心の声がアベノミクスを後押ししたのではないか・・・そんな気がしている。詳しくはまた別の機会に)
昨日のブログではITの発展によって「待つ」ことが減っていく社会を想像し、そのメリットについて考えた。
と同時に、進化する社会や人間が代わりに失うものもあるのではないかと問題提起も行った。
そう。
我々は常に進化を指向し、そのための努力を(望もうが望むまいが)しているけれど、進化の代償を払う覚悟ができているかどうかを省みる機会はほとんどない。
数年ぶりに「ALWAYS 3丁目の夕日」を観た。
我々日本人が手にしてきたもの、失ってしまったもの、
そんな「進化のトレードオフ」を改めて身近に感じることができた。
あれから60年が経とうとしている。
これから先50年、60年後の我々は何を手にし、失うことになるのだろう。
手にしたいもの、失いたくないもの、失ってもいいもの・・・
それらをしっかり考え、議論し、共有していくことが大事。
そして、
それ自体が日本人の進化であり、
それによって失うものもあることを忘れてはならない。