昨日のブログで「失われた20年」の原因は「自己責任の溶解」と「日本人の幼児化」にあるという仮説を提示した。
http://d.hatena.ne.jp/norio373/20130314
「あまりにも自分の人生や生き方、自分という個の存在を考えなさ過ぎ」、その結果、「自分で強く生きていく力が弱まっている」と述べた。
自己責任の溶解とは、個人よりも組織を優先するがあまり組織のルール、社会の常識といった大きなものが判断や行動基準となり、それを繰り返していくことで自己喪失が起こり、個人の存在価値や使命を深く考えないことで自己責任が育たなくなる状態を指す。
「失われた20年」の間、数えきれぬほどの破綻企業が国によって救われ、個人もまた自己破産を宣言し、借金から開放されてきた。
それら社会的セーフティネットはプラス面だけでなく「自己責任の溶解」を助長する一因になっていることも認識しなければならない。
大きな流れに身を委ね、ただただ流されていくだけでは泳ぐ力は身につかない。ましてや自分の考える目的地に到着することはできない。
ここまで書いてきて、ふと気がついた。
そもそも日本人は、昔から生きるということは大きな河の流れに身を任せるようなもので、個人がどうこうできるものではないと考えてきたのではないかということ。
集団で意思決定をし、組織の中で責任を分散させてきた結果、責任の所在さえも曖昧にする性癖がDNAにまで刻まれてしまっているのではないか。
「失われた20年」の原因は元々あった自己責任意識が失われてしまったから発生したのではなく、そんなものは元来存在せず、「失われた20年」もあくまで大きな歴史の流れの中の瞬間的なこと、全ては移ろい消えていく諸行無常であり、日本人にとっては目くじらを立てることではないのかもしれない。
とは言え、
原因究明をしなければ、再び同じ過ちを犯しかねない。
それは組織も個人も同じ。
あくまで個人の自由と成長のために、
「自己責任の溶解」を止め、育成していく方法を考えなければならない。