昨日、一昨日と「世界の構成物」について仮説を唱えた。
今日はその3回目。
初回は「世界は認知されたものからのみできている」と書いた。(世界の構成物A)
昨日は「世界は言葉からできている」と仮説を立てた。(世界の構成物B)
今日は「世界は認知されないモノでも構成されている」ことについて考えたい。
初回は、個人の世界観、人生観を形作るのはあくまで個人が認知したモノのみであり、個人が体験し得ないモノは全く影響を及ぼさないと書いた。(世界の構成物A)
自分が子どもの頃に体験した想い、学生時代の部活や恋愛経験、仕事を始めてからのわくわく感やプレッシャーや不安感。そして達成感。直接自分で体験せずとも間接的に経験(認知)した大震災や社会的問題。科学や歴史から学んだ知恵・・・
そういった自分が認知、認識したことが価値観や人生観、世界観を作ることは間違いない。
しかし、それが全てではないことも我々は知っている。
なぜなら世の中は自分がコントロールできないモノで溢れているから。
例えば遺伝子。親やご先祖様から受け継いでいるモノ、人間が共通して持っているモノ、人類が生き延びてきた歴史の中で一人ひとりのDNAに刷り込まれているモノ。
そういったモノ一つひとつを我々は認識してはいない。
かと言って、それらが「存在しない」とは言い切れない。
むしろ、全てを自分が選び取っているという感覚はなく、 「偶有性の海」に身を委ねている。
自分の人生は自分の世界観、価値観、人生観からのみ成り立っているわけではなく、大いなる存在による見えざる手や運命の赤い糸によって導かれているという考え方。
自分の意志で生きている部分と生かされている部分の両面があるということ。
自分の意志で生きている部分は認知されたコト、言葉に変換されるモノでできていて、生かされている部分は、認知はされないけれど「在る」モノによって構成されているということ。
この世界は自分たちが知っていることと知らないことで作られている。
この世は我々が理解できることと理解できないことで構成されている。
それだけは間違いない。