遠慮という大罪

 

昨日のブログで「遠慮という罠」について考えた。

 


今日は引き続き遠慮のマイナス面を深堀りしてみたい。

 


遠慮はもともと日本人の美徳の一つで自分よりも周りの人や全体を考えた上での配慮のこと。

 


それでも遠慮を敢えて「大罪」呼ばわりするのは、失われるものが少なくないから。

 


弱さの隠れ蓑にしていないか?

自分を良く見せようとする下心はないか?

自分の可能性を押し殺していないか?
 

 

遠慮の動機を深掘りしてみてはどうだろう。

 

 

もし「遠慮という美徳」の下に自分の可能性を閉じ込めているのなら

 

 

「大罪」の汚名を着せられても仕方がない。

 

 

自分自身を解放せよ!