「やさしさという残酷」というタイトルで昨日ブログを書いた。https://norio373.hatenablog.com/entry/2023/11/18/220524
元メジャーリーガーのイチロー氏の言葉をきっかけに書かれた記事は示唆に富んでいて、コンプライアンス(法令遵守)やハラスメントを背景に「厳しい大人」がいなくなった現代は「やさしさという残酷」な社会でもあると喝破する。
https://news.yahoo.co.jp/articles/fb53928b484aad50dced29a4eef7986608b457d5?page=3
「責任を負う人」がいない時代
これは部活動にかぎった話ではなく、一般企業の教育・指導にも共通した問題だ。いまは上司や管理者が部下に厳しい指導をしようにも、ハラスメントとして告発されてしまうリスクが高いし、あるいは厳しい指導をしたせいで心が折れたり気持ちが萎えたりして辞められてしまうのは、人手不足の状況では死活問題になってしまいかねないため、うかつに踏み込めない。 なので教育者・指導者側も、まず「自分で自分を厳しく律することができる人」「厳しいフィードバックに耐えられるタフネスがありそうな人」を慎重に選んで注力するようになっている。そうでない人には、心が折れて辞められたりすることがないよう、腫れもの扱いしながら敬遠する。 結果的に、自分に厳しくできない人や、厳しいフィードバックに耐えられない人は、表面的には学校でも部活でも会社でもどこでもそれなりに「やさしく」遇されやすくなって快適な日々を送ることができるが、しかしタフな人びとに経験値や成長度で大きな差をつけられてしまうし、だれにもそれを埋め合わせてもらえない。格差が開いてしまったあとから「自分がこうなったのは、だれも厳しく教えてくれなかったせいだ」などと申し立てることなどもちろんできない。自分でちゃんとしなかったせいでしょ? とあっさり切り捨てられることもままある。 「厳しい大人」というのは、若者を「一定のラインまで引き上げる」ことを、責任をもって保証してくれる人でもあった。その指導やフィードバックが厳しくても辛くてもしんどくても、とりあえず信じてついていけば、ある程度の高みにまでは自分を運んでくれる、そういう指導責任を頼もしく引き受けてくれる人でもあったのだ。 いまの時代は、そういう「厳しい大人」という存在を、子どもたちにとって加害的であり、抑圧したり心の傷を負う原因となってしまうリスクがあるということで排除してきた。それによって、たしかに子ども時代に理不尽やトラウマを味わう機会がめっぽう減ったことは間違いないが、かつてそういう人たちによって保証されていた「高み」に上がって来れるかどうかは、完全に「自己責任」になってしまった。
誰からも叱られない社会は一見やさしく見えるかもしれないけれど、それは「剥き出しの自己責任」を問われる「残酷な社会」とも言える。
そんな「剥き出しの自己責任」が問われる社会においてどう生きるのか。
ただ単に生き残りを賭けて生きるではつまらない。
「剥き出しの自己責任」は初めは風にあたるだけでもふらふらしてしまうけれど、よちよち歩きから独り立ちできるようになれば、きっと強くなれるはず。
責任の裏側には無限の自由があるからだ。
「人生を最高に旅せよ」
ニーチェの言葉を思い出し、
心の羅針盤を見つめ、
舵をしっかり握り、
自分だけの大海を自由に航海できるよう成長していきたい。